北本市史 資料編 古代・中世

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第3章 城館跡・金石資料・仏像

第2節 金石資料

1 板碑

(一) 板碑とは何か
 板碑(いたび)とは、石造による板状の供養塔である。埼玉の中世に生まれ中世に消えていった、埼玉の中世を象徴する石造物である。石材は主として緑泥片岩(りょくでいへんがん)が使用されている。緑色を呈した板状に剝ぎやすい片岩であることから、青石(あおいし)塔婆、板石塔婆、板碑(ばんぴ)とも称されてきた。緑泥片岩は秩父地方で産出し、初期の大形品は主に河川を利用して運搬したものである。秩父産の緑泥片岩製板碑は、遠く長野県・新潟県・福島県などまで運ばれている。全国に波及し、その地域地域毎に入手しやすい石材で造立され、ときに自然の岩壁を利用して磨崖の板碑をも彫りだしている。
 形態は石材に制約され、地方によってバラエティが見られる。埼玉県を中心にした地域に分布するのは武蔵型と分類されている。頂部を山形とし、その下に二条線の切り込みを作り、長方形の身部に種子(しゅじ)を彫り、年号を表すのが基本の形である。
 造立目的は表示されている仏に対する信仰と、死者への供養が目的である。亡くなった人を供養することを順修といい、そのための供養塔を順修塔と言う。逆修は自分の死後の冥福を祈るため生前に法要をおこなうことで、預修とも言う。この塔が逆修塔である。室町時代になると民間信仰の板碑が生まれるとともに、大勢で協力して建てることもおこなわれるようになる。また、小型化して個人の墓石化したものもある。
 造立者は武士層から始まる。初発期はとくに鎌倉幕府と直結していた武士であろう。室町、戦国時代には常民層に普及している。

図1 板碑の部分名称

図2 市域で見られる主尊種子と光明真言

 建て方は地面に穴を穿ち板碑を建て、周辺をつき固めたものである。台石を使用して建てたものもある。末期の小型のものはそのまま地面に突き刺してたてたものである。市域で造立当初のままのものは東光寺(石戸)の樹木に抱え込まれているもののみで、他はすべて移動したものである。

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