北本市史 資料編 古代・中世

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第4章 参考資料「記録・系図等」

1 関八州古戦録 [静嘉堂文庫]

巻之第五
  輝虎、松山の城後詰の事
 斯て上杉謙信厩橋へ越山して一日休足し岩築へ飛札を以て三楽斎にも急に出張有へき旨申送られ、三月四日武州石渡(戸)の渡まて押出られし処に、松山〔の〕城既に明け退き悴者共追々に翻(コホレ)れ来るに付て、越兵本意を失ふ①といゝとも、縦令城こそ敵の為に獲(エ)られたり共、甲南の両大将在陣の上は一戦を遂て後巻に発兵したる徴(シルシ)をも見知せ、其後の動作は時宜に随ふへしとて猶松山へ軍を進め働を懸られけれとも(るといへども)両家要害の地に取騰て曽て以て取合ふ事(機)なし。然る処に太田美濃入道参陣せり。輝虎渠を招き新蔵人か如き柔弱の者に城を預け無用の後詰を促して、予か弓矢に瑾(キツ)を課(ヲヲ)する事奇怪の至り成と〔て〕大に立腹せられけれは三楽斎〔も〕かくあら(れ)んと覚悟せしにや、鎧の引合より帖紙(タトウカミ)を取出し城に籠置し士卒の員数幷兵粮用具已下丈夫に認めたりし趣〔書付〕披見に入れ、且は憲勝質として子供両人岩築に抱へ留むる次第を一々に述けれ(る故)は、輝虎納得して、偖は資正に越度なし。憲勝か小怦(躮)とも提(撫)切にするとも厭(アキ)足らすといゝとも、物の心もしらぬ奴等(ハラ・曹)愗に不便なれは一命を助け(く)る条資正帰城の後、那波の城へ送て北条丹後守に姑く預け置へしと申渡されけ(无)る。さらは三楽と中直りせんとて、土器取寄一献斟て資正にさゝれたり。輝虎其時松山在陣の両家人数は何程あらんと問〔れ〕けれは三楽聞て北条家は氏政、綱(継)成、大石源三氏照、武田家には信玄、義信、逍遥軒惣して大将分六人、士卒は五万余の着倒(到)した(无)りと承〔侍〕ると答ふ。謙信嗤(アサハラツ)て氏政、晴信こそ大将なれ、氏照、義信か如きは輝虎か椀(腕)先にて刀の背(ムネ)打にするといふ(へ)とも猶不足なる敵共なり。今吾八千〔の〕勢を以て両旗の大軍に駈合せし(ん)と欲する事は外目には不適なれとも勝負は時の運次第なれは毛頭気遣ひなかるへし。但両家節所に陣して一向に取合されは、輝虎戦ひの道を失ふ。所詮間近きあたりに南方抱の城は無きかと問け(ふ)れは、三楽斎答〔て〕ふ崎玉郡騎西領の内〔なる〕山櫛(根)の城こそ北条家の持分にて是より東道二十里斗も候はん。一日には輙(タヤス)く往反仕る所なり。忍の城(无)成田か旗下小田伊賀守顕家累代の城地にして、当時は長泰か舎弟助五郎家国(一本宗長)とて顕家に養はれ一道(迩)を相続して罷在と申。輝虎打頷き助五郎に対して更に宿意はなか(无)りけれとも長泰か弟とあれは是も又用ある者なり。急き押懸〔け〕けちらし一人も泄さす撫切にして予か胸中の朦霧を散すへし。三楽案内頼み申〔す〕。はやく打立て〔者共とて〕進めや(无)と、勇みに勇んて出馬なり(進まれける)。
             以中山本一校畢 三中

巻之第六
  上杉謙信、武州騎西城攻の事
 去(尒)る程に輝虎入道は太田三楽を先陣として利根川二本木の渡りにうちのそみ、資正に命して船橋を架(カケ)させ、其間に使武者斎木庄助に西上州第(野)一田の郷士中沢和泉守を指副、甲南の〔両〕陣に申送られけるは此度松山籠城の族(処)後詰を待得すして明け渡し、輝虎〔をきらす〕後巻の義(と)、両家の批判押量りて〔面目を失はせ畢。然れば〕責て出陣の功に一戦を志さすといゝとも、各節所に扣られ執合〔れ〕さるにより、せんかたなく氏政の持分小田助五郎か騎西の城地へ押向は(ひ)せ侍るの条、希は二旗を以て後詰あられ候へかし。そこにて運否を試み申すへしと傍若無人に云送り二(三)本木の渡りを打越、漢の韓信か背水の〔法〕①に比して船橋の〔手〕縄を切流し騎西表へ着陣、一時攻に乗捕〔ん〕とてもみにもんて攻られしか、小田も健なる勇士にて諸卒又身命を抽(抛)て防ける故、既に両日持堪へたり。其日夕つかた輝虎大物見に出て、高揚の地に立留り心閑に城中を伺はれけるに、本城と中(仲)の丸の間大沼ありしに移り橋をかけ往来をなせし中に、白き衣裳を着た(く)る婦人中(仲)の丸を出て本丸へ越(赴)く躰夕陽に映して彼泥(テイ・沼)水にうつりけるを、輝虎熟(ツラ)々視察して、偖は中の丸堅固を受たる処故、女童〔部〕の類足弱を入置、戦兵は本城外郭に楣籠れりと考へ、頓て元の陣に(へ)帰て、武主等を招き今夜当城を夜懸(討)にすへし、其用意仕れと〔て〕手組、手分、手配を定め、態と虎口 一方を明て、其道に伏兵を設け、夜に入りけれは、本庄越前守繁長、黒川備前守為盛、山浦源五郎、山岸右門尉、鍔(湫)兵右衛門等大手へ向ひ新発田尾張守長敦舎弟治長、五十(シコ・丑十公)大野(ノ)大膳亮弘家等〔か〕人数長中(タケ・竹)に提灯〔を〕結付〔け〕是を持しめ、筏に乗て外曲輪の沼より中丸の块(塀)下へ(に)押着け大手の責口にて相図の閧を挙ると等しく件の提灯を一同に灯したてゝ中丸の内へ(に)手々に差入閧を噇と作り塀の板をたゝへて声をはかりに鳴動響けれは中(仲)丸に篭りし女童〔部〕肝を消しおめきさけんて〔移り〕橋を這ひよろぼひ、本丸へ逃走〔る〕風情目も当られぬ有さま(分野)也。城兵大きにおとろき中(仲)丸を見や(け)れは提灯の光〔り〕万燈会②の如く宛(えん・あたかも)然として火の手をあけたる様なりしかば、すはや中丸を乘捕れしそ(は)と云程こそあれ、前後不覚の躰たらく成に大手に向ひたる本庄繁長頻〔り〕に鉄炮を打かけ城戸を破てせめ入らんと進み懸る。城兵防くに力たゆみ、一方明たる虎口より我も々々と落行しを待伏したる奸(マ・カタリ)の兵爰彼に起合て、或は生捕或は打ふせける間に、本庄は大手を乗捕、新発田は中(仲)丸に(へ)打入夜明〔け〕ば詰の城を責破らんと篝火を所々に焼せて、曙の空を待居た(け)る所に西上方(野辺)の先方(手)磯崎弥惣右衛門先隊の側(例)に加わ(は)りて有りしか、成田か一族たるゆへ、助五郎是に依て(便り)太田資正を頼み降を乞〔ひ〕且は舎兄長泰名代として次男左衛門〔次郎〕泰喬を三楽か陣へ馳〔せ〕て上根の城無事たらんに於ては助五郎と同く輝虎の麾下に参して忠戦を抽つへき趣起証文を以て申送りけれは、資正も黙し難く揮虎へ歎訴しける故、助五郎が人質を取て本領も又相違なく宛行ひ越兵陣を退けたり。此時輝虎の指図を受て三楽か(が)女を長泰か嫡子左馬助氏長に娶すへきの約を成せり。元是資正か兄太田信濃守資時は長泰姉聟たりしにより追て婚家の好身(よしみ)を継しめんか為なりとそ聞へし。亦足立郡足戸のは砦は南方の抱へとして飯(依)田大膳亮守り居けるを(か)此度輝虎、長泰父子に命して是を攻落さしめ復参の面目にそ備へ〔られ〕ける。

巻之第六
  北条氏邦、武州足戸攻付宇佐神定勝討死の事
 今(同)年壬戌の秋北条氏政の下知を受て北条新太郎氏邦、秩父、鉢形の勢を卒て武蔵国足戸の砦へ押寄攻捕んと欲す①。北越の毛利丹後守是を守て居たりけるが克く防て寄手手負、死人多く是悲(非)なく退散お(を)そしたりける。此時毛利(力)方ゟ飛札(脚)を送り厩橋に救を求めける故、北条(城)か与力の士(侍)和田、松円(岡)、寺島已下六七百人加勢として足戸へ越(赴)きける〔か〕宇佐神(見)駿河守良勝か嫡子造酒助(介)定勝今年十七歳当春輝虎の驥(キ)尾に従て越山し弓矢修行の為とて厩橋に留り居けるか、幸の事出来たりとて、手勢引連(れ)、援兵の列に加わ(は)りて馳行(ク)所にあし戸のせり合事終て、鉢形衆旗を返しけるに足立の郡上尾〔の〕駅にてと出逢ひ双方おもひ不レ懸一戦に及ひ宇佐神(美)奮撃して終に討死を遂たりける。流石に父の子程ありて生ひ先き頼もしき若者たるにおしむへし(き事)とて皆人さゝゆきけるとぞ(なけきあへりとそ)。是迚も宿因の果す所にや侍りけん。去〔々〕年庚申(永禄三年)の秋、信州川中島大合戦の已前(以前)善光寺の別当職粟(栗)田法橋永寿、牧島の城主芋川越前守を相語らひ武田家へ内通の事あり。此折ふし造酒佐は野尻の城にありしか、其企を聞〔や〕否、僅の兵を召連(れ)彼所に(へ)行むかい暫し(時)か間に両隊の人数を追払ひ三国伝来の本尊阿弥陀如来を奪ひ捕(トリ)、野尻の城へ帰〔り〕ける故、栗田大きになけきて種々の扱を入己か食邑の内にて廿貫文の地を割て、宇佐神(美)に渡し是に依(代)て金像の本尊をすへ奉りけり( 本居なさしめたり)。造酒佐か壮勇の働は感せぬ者なしといへとも、本田善光安置の以来、不退転の霊仏なるを猥におかし取参らする事、冥罰如何有ぬへしと傍に(々)眉をひ(蹙)そめける(仏なるを)か果して三とせの其月その日(七月十日)討死(ヲ)したりけるも不思議なりし事ともなり。  

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