北本市史 資料編 古代・中世

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第4章 参考資料「記録・系図等」

3 我衣 〔日本庶民生活史料集成第十五巻所収〕

 五月廿七日当四ッ時比、旧藩の心友渡辺崋山来る。是は桶川宿より西の方石戸宿といえる所に、古代よりの大樹の桜あり。其根に古碑の有るよし、愚老も兼て聞置しが、今度曲亭馬琴、玄同放言といへる書を述作せしが、其中へ加へ入れんと其画を崋山に書せん為なり。好事の男なれば其形容を眼のあたり見ざらんには、画にして口惜からんと、古図はあれ共猶其事実をも探らんと、かしこに至れる也。画のもふけさせて九ッ時過桶川宿に旅出しぬ。翌廿八日は雨さへしとヾふりたれど、巣鴨なる夏口子(新御番有田五郎右衛門)の菴びらきにまねかれて、雨耕子(名主市右衛門)文思子(伊勢屋五郎兵衛)雨麦子(千代本三郎衛門)等にうながされて九ッ時過より彼菴に至れり。暮過る比帰宿せしに、きのふ桶川に行たる崋山、はやくも帰り来りて止宿せり。其健堅なる事を称しぬ。扨其写し来るものを見、猶故の物語に曰、桶川より西の方左りへ入事凡二里に足らず下石戸、夫より谷津、諏訪市場、堀之内村といえる所也。(中奥御番牧野式部殿知行所也。)西木山東光寺、遊行派、寺にはあらで少しき菴室也。其菴の後ろに四囲に余れるかば桜あり。枝左右へわたり三十間余、其根に古き板碑十五枚、内全き物八枚、皆弥陀の梵字あり。高き物六尺或は五尺、貞永(五百八十八年)、寛元(四百七十七年)、文永(四百五十五年)、弘安(四百五十二年)、永正(三百十七年)、建武(四百八十七年)、文亀等の年号あり。其余滅して見るべからず。桜の根をかゝへ領たる物二枚、仏像を彫り付たり。相伝ふ、此所は古しへ蒲の冠者範頼卿地にして、鎌倉殿の不興を蒙り給ふ清(ママ)此所にて生害し給ふとかや。此桜の元卜に埋葬し奉れりと云伝ふ。扨亦其臣なる者高松三郎左衛門(今改小林)といえるもと豪家たり。其分地の小林松右衛門といえる者、此村に庄官たり。むかしは少しの器物縁起等もありけれども、慶長年中囘禄して一物も不残とかや。其庄官の云へるは、此所古へは城郭の跡にして所々にそのかたち残れり。堀の内と号するも其要害の堀なるべし。其形いかにもと思わる。又半里斗石戸宿のうしろに城山といえる所もあり。委しくとひたづねせしかども、農民の口碑に伝へたる事信用しがたき事のみ多しと語れり。其略図

木の高さ二丈余、根より四五尺上にて七株に分れり。

案るに、此桜の如多く碑の集りたるは、此辺都て古代の寺々亡失して、往々残りたる碑を此所へ持集めたる物ならんか。さもなくば此東光寺、代々の住持の石塔婆ならんと思わる。又代々此辺りの領主の菩提所にして、其印にやあるらん。扨其夜は崋山も止宿しぬ。

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