北本市史 資料編 近世

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第1章 領主と村

第1節 村の政治

近世の北本市域が、资料に初めて登場するのは、天正十八年(一五九〇)九月の牧野讚岐守康成の石戸領への入部に関する知行書立(資料1)であり、ついで翌十九年の寿命院宛の徳川家康朱印状(資料205)である。江戸時代初期はおおまかにいって、旧石戸村域は旗本知行地、旧中丸村域は幕府領で代官の支配を受けていたが、のち旗本領となった。数多い旗本のうち『寛政重修諸家譜』にのっている牧野・日下部の二氏、および代官の伊奈氏については系図(資料8)をのせた。ところで江戸近郷では一村を一人の領主が支配するということは少なく、一村を二人かそれ以上の領主による相給(あいきゅう)支配が多く、この傾向は時代が下るにしたがって高まった。
この時代の農民は、それぞれの領主に年貢を納めることを基本とした地方支配とともに、各領主の支配をこえて、幕府の「公儀」としての支配も受けていた。幕府の公儀としての触達(ふれたっし)は幕府領は代官から、私領・旗本領はそれぞれの領主を通じて布達された。農民には年貢のほかにもさまざまな負担がかけられたが、第六項には国役金(くにやくきん)・夫役(ぶやく)の一例を、また領主の冠婚葬祭の一部までも負ったことを伝える資料ものせた。
御用留(ごようどめ)は村の政治的動きを知るには格好の資料であるが市域にはのこされていない。ここには鴻巣市原馬室の御用留から市域に関係ある資料をいくつか抄録した(資料13)。
文化二年(一八〇五)、幕府は関東取締出役を設けたが、これは幕末の関東地方宿町村統制の上で重要な画期であった。市域では石戸宿・下石戸上・下石戸下の三か村が桶川宿の、他の一一か村は鴻巣宿寄場組合に属していた。
封建領主の生活はすべて領民の年貢や諸役に依っていたから、これらの徴収に当たる一方、他方では百姓の安定策すなわち百姓を潰(つぶ)さないための配慮をしなければならなかった。本節には、これに関係する貯穀(ちょこく)・貸借・窮民・救恤(きゅうじゅつ)関係の資料を一二点のせることにした。

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