北本市史 資料編 近世

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第1章 領主と村

第1節 村の政治

6 国役金・夫役

29 享保六年(一七二一)三月 下石戸上村朝鮮通信使来朝国役金取立帳
  (下石戸上 吉田眞士家文書五七三)
(表紙)

     享保六丑年
  亥の年朝鮮人来朝役銀帳
     三月廿三日    下石戸上村
                」

一、百石ニ付金三分五匁
     銀両替五拾匁
一、高二百八拾八石八斗四升
  此金弐両壱分壱貫六文 但、相場銭
 右は朝鮮人役金銀
一、弐貫百拾五文 御屋敷様江二月十五日より三月十日迄
 人足賃割
 二口合弐両壱分三貫三百廿壱文
 銭ニシテ拾四貫百弐拾壱文
 此割壱反ニ付拾八文五分三厘
       組頭 善 兵 衛 ㊞
 享保六丑ノ 同  弥 兵 衛 ㊞
 三月廿三日 同  源   八 ㊞
       同  清 兵 衛 ㊞
       同  作右衛門  ㊞
       同  文右衛門  ㊞
       同  六右衛門  ㊞
       同  七郎右衛門 ㊞
       同  覚右衛門  ㊞
  一、弐百五拾一文   作右衛門 
    (中略)
  一、廿弐文      加右衛門
〆三百七拾文
右の割請取申候へ共、御上より御返し被遊候間、丑ノ七月二日ニ相返し申候、為後日記置申候、以上
          善 兵 衛 ㊞
  丑ノ七月二日  弥 兵 衛 ㊞
          源   八 ㊞
          淸 兵 衛 ㊞

解説 国役というのは、天領・私領を問わず国を単位として課した課役の一種であって、江戸時代では大河川の堤防修復を目的として行われることが多かつたが、ほかに朝鮮や琉球の使節の参向帰国の道中費用や日光法会参列道中費用、あるいは禁裡造営費などの名目で臨時に課することもあった。
この資料は、享保四年(一七一九)の朝鮮通信使来朝に伴う国役金の取立帳である。通信使というのは、将軍の代替りなどに祝賀のため朝鮮から日本に派遣された使節で、慶長十二年(一六〇七)から文化八年(一八一一)までの間に一二回派遣されている。幕府は権力誇示のため、彼らを国賓として歓待した。そのため百万両もの出費がかかり財政を圧迫したので、朝鮮人国役金として東海道諸国村々から徴収するようになったのである。このときは二年後の享保六年(一七二一)三月に賦課され、下石戸上村では百姓一二一名から金二両一分と銭一貢六文を反高割で徴収している。しかしこのお金は、なぜかその後七月に全額返還されているが、その理由は定かでない。

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