北本市史 資料編 近世

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第1章 領主と村

第1節 村の政治

6 国役金・夫役

30 寛政七年(一七九五)二月 下石戸下村鹿狩勢子人足減員願
  (本宿 岡野正家文書二六)

     乍恐以書付奉願上候
一御知行所武州足立郡下石戸下村名主・組頭・百姓代一同奉申上候、此度小金原御鹿狩勢子人足三拾弐人当村江被仰付候旨、三沢口太忠様・竹垣三右衛門様より御触書頂戴奉畏候、然ル処当村元高三百九拾七石ニて、 右の内拾弐ケ年已前天明四辰年中、同郡元宿村江百石村分ケ被仰付置候ニ付、百石分人足八人相勤候様、同村名主弥右衛門方江申遣候処、組頭共と相談の上挨拶可致旨ニて等閑二いたし候間、其後猶又度々及懸合ニ候得は、前段申上候通百石ハ村分ケニて諸役筋直勤仕来、右人足の義ハ此度村方江御触無御座相勤兼候趣、併対談の上人足四人差出候様可致旨、心得違の挨拶仕甚以難儀至極二奉存候間、何卒御慈悲を以右の段被為御聞訳、元宿村ニて百石分人足八人相勤候様被仰付被下置候ハゝ、難有仕合奉存候、以上
      御知行所
       武州足立郡下石戸下村
         名 主
寛政七卯年二月  組 頭 惣代
         百姓代
御地頭所様     名 主
   御役人中様  卯 之 介 ㊞

資料30 下石戸下村鹿狩勢子人足減員願(本宿 岡野正家文書)

解説 小金原(おがねのはら)は『延喜式』に出ている牧の一つで現在の千葉県流山・柏・鎌ヶ谷・船橋及び習志野の五市にまたがる一帯の広漠たる原野であった。ここでは幕府の要人が広範囲に及ぶ農民を勢子人足として徴発し、鹿狩りが行われた。
この資料は、下石戸村が一二年前に高一〇〇石を元宿村に分郷したにもかかわらず、前と同数の勢子人足の徴発を求められているのに抗議した人足減数嘆願書である。資料80にあるように、下石戸下村は天明三年に高一〇〇石を元宿村に分郷した。だからー〇〇石分に相当する人足八人は元宿村で勤めるよう申し入れたが、名主弥右衛門はいずれ相談の上ご挨拶するといってかけ合わない。しかし、さらに話し合ったところ、それでは四人差し出しましょうと心得違いの返答をしてきたので困っている。ついては八人にしていただくようお願いしたい、というものである。
鹿狩勢子人足のことをとりしきっていたのは、江戸馬喰町の鹿狩御用役所であるが、ここまで分郷のことが知られていなかった事務上の手違いによりこの一件となったものと思われる。

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