北本市史 資料編 近世

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第1章 領主と村

第2節 村の動き

5 村方出入と治安

60 天保十一年(一八四〇)十月 去る享保十二年(一七二七)荒川渡守居屋敷につき出入裁許請状写
  (下石戸上 吉田眞土家文書六二五)
(表紙)

  享保十二年未二月四日
  御裁許御請証文の写
         武州足立郡
            下石戸上村
               」
     差上申一札の事
武州足立郡荒井村訴候は、同国上下石戸村・石戸宿・高尾村・当村共ニ五ケ村入会秣場の内、当村支配の荒川渡守居屋敷の儀付右四ヶ村と及争論候処、取扱ニて相済御代官様江済口証文差上御検地請候処、此度右渡守居屋敷迄入会地の由申掠、御検地其通二請可申段四ケ村より申懸、心得違ニて先達て済口証文差上候由変替申候、渡守跡々より荒井村致支配、人別帳ニも相載、四ヶ村より構申儀は無御座由申上候
同国上下石戸村并石戸宿答候は、先規より荒井・石戸・石戸宿・高尾五ケ村地元入会の秣場有之渡守住居屋敷及争論、取扱ニて相済御代官様江済口証文差上候訳は、渡守罷在候場所の秣猥二刈取不申、先規の通入会地ニて御検地一同ニ請五ケ村より永々御年貢上納仕候筈の済口ニ候、先御裁許御裏書二有之通、右船頭計荒井村支配ニて、住居屋鋪は入会地無紛由申上候
右出入御詮儀の処、三拾一年以前荒井・石戸・高尾三ケ村争論の節、御裁許絵図御裏書□(虫損)右渡守ハ荒井村船頭と書載、居住屋敷の儀は入会秣場地内ニは荒井村持分と申儀無之候得共、只今迄船頭支配仕来候付、住居の地ともニ荒井村支配入会ニ無之と存罷在候処ニ、段々御吟味の上証跡無之、第一右御裁許書ニ住居屋敷の儀書記無之上は、荒井村申分難立旨被仰聞奉承知候、依之被仰渡候は、船頭の儀は有来通荒井村二て致支配、居住の地は五ヶ村入会ニ支配仕、尤上下石戸・石戸宿・高尾四ヶ村より如前々船頭扶助米差出可申旨被仰付、双方奉畏候、若此儀ニ付重て出入ケ間敷儀申出候ハゝ御科ニ可被仰付候、為後証連判差上申処仍如件
      牧野助三郎知行所
       武州荒井村

           名主 平兵衛
享保十二年未二月四日 訴訟人 
           組頭 藤右衛門

     牧野八太夫知行所
      同国石戸領石戸宿
         名主 善右衛門
         組頭 与惣右衛門
            代り権兵衛
     同人知行所
      同国同領下石戸上村
         名主 平 兵 衛 
         組頭 七郎右衛門
            代り与右衛門
     同人知行所
      同国同領下石戸下村
         名主 次 郎 兵
         組頭 安右衛門
            代り惣兵衛
 御評定所
右の通写奉差上候処相違無御座候、以上
       牧野八太夫知行所
        武州足立郡下石戸上村
 天保十一年子十月 名主 徳 太 郎 ㊞
解説 この資料によれば、荒川の渡守は下石戸上村・同下村・荒井村・石戸宿・高尾村の五か村の入会地に居宅を構えさせ、渡守に対する指図は荒井村が行い、他の四か村が船頭の給料である扶持米(ふちまい)を分担していた。
ところが、享保十二年(一七二七)荒井村は渡守を支配していたため、居宅のある場所も荒井村の土地であるとして訴えたのに対し、三一年以前(元禄九年か)の御裁許絵図面によって確認し、従前どおりということで裁決がおりた。この資料はその時の関係者(高尾村脱か)が連判し評定所へ差出した請書を、天保十一年(一八四〇)下石戸上村の名主徳太郎が写したものである。

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