北本市史 資料編 近世

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第2章 村の生活

第1節 土地と農民

 近世封建社会は、農業生産を基盤とする社会である。したがって、支配者である大名や領主は土地制度の確立に意を用い、その第一歩が検地であった。
 検地とは領主が自分の支配する土地を測量し、その面積・地味・生産力などを調査し、貢租を負担する農民を確定することであり、全国統一を果たした秀吉は全国的に強力に検地を実施した。
 天正十八年(一五九〇)八月、関東入国を果たした家康は、ただちに家臣の知行割に着手し、翌年から伊奈備前守忠次・大久保石見守長安らに命じて検地を実施した。そして慶長から元禄期にかけて各地で幕府による大掛りな検地が実施された。
 市域について見ると、天正十八年九月石戸の地に五〇〇〇石を与えられた牧野讃岐守康成宛の「知行書立」(資料1)の中に、伊奈熊蔵名義で
  来年御縄打(検地)の上、不足に候はヾ足し申すべく候、あまり候はヾ御返しなさるべきものなり(『新編武蔵風土記稿』)
と記されていることからすると、天正十九年(一五九一)に初めて検地が実施されたものと思われるが詳細は不明である。『新編武蔵風土記稿』によれば深井・宮内・山中・古市場・北中丸・常光別所村が伊奈半左衛門により、東間・花ノ木村が会田七左衛門らにより寛永六年(一六二九)に、荒井村が寛文七年(一六六七)、下石戸上・下石戸下・石戸宿村が翌八年に地頭牧野氏(高尾村も同様であろう)により、北本宿村が寛永八年(一六三一)と寛文八年(検地人の記載なし)に検地が実施されている。
 この検地の結果をまとめた土地台帳が検地帳であり、水(御図)帳・縄帳・竿帳などとも呼ばれた。検地帳は田・畑・屋敷に分かれ各正副二冊作成し、領主と村(名主)がそれぞれ保管し、名主が交替するときは年貢割付状などと共に必ず引継がれた重要書類であった。しかし市域における現存状況は意外に少なく、ここでは元和期の荒井村(資料68〜72)、寛永期の本宿村の検地帳(資料74〜77)をはじめ、享保十六年(一七三一)に下石戸下村から本宿村へ分郷した土地の寛文七年の検地帳(資料81〜83)、それに寛保二年(一七四二)の大洪水後の、下沼流作場の再検地関係資料(資料85〜91)などを収載した。

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