北本市史 資料編 近世

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第2章 村の生活

第1節 土地と農民

3 荒川通流作場一件

91 文化五年(一八〇八)五月 下石戸上村反高場反別小前帳
  (下石戸上 吉田眞士家文書四〇三)
(表紙)
「  文化五年

  反 高 場 反 別 小 前 帳

   辰五月   足立郡下石戸上村 」

享和三亥年より文化四卯年迄定免
一高八斗九升
此反別畑四反四畝拾五歩
此小前

一林畑壱反四畝拾八歩    次郎右衛門

一林畑九畝三分       三左衛門

一林畑壱反壱畝三分     利兵衛

一林畑九畝廿壱分      重右衛門
  高入場分ハ除

右同断
一反高弐町壱反九畝拾五歩
此小前

一芝畑壱反壱畝廿四歩    源左衛門

一芝畑壱反壱畝廿四歩    太郎兵衛

一畑弐反四畝三歩      源   内

一畑壱反壱畝九歩      伊右衛門

一畑壱反歩         権 兵 衛

一畑八畝九歩        長 太 郎

一畑壱反五畝三歩      庄   蔵

一芝畑壱反廿四歩      勘 三 郎

一芝畑八畝六歩       武右衛門

一芝畑弐反三畝廿七歩    重 兵 衛

一芝畑壱反弐畝拾五歩    伝 兵 衛

一芝畑七畝廿四歩      四郎左衛門

一芝畑壱反拾五歩      権 兵 衛

一芝畑壱反五畝拾八歩    善 兵 衛

一芝畑六畝六歩       真 福 寺

一芝畑壱反六畝六歩     源左衛門

一芝畑壱反五畝拾弐歩    六 兵 衛

外ニ秣場六反七畝拾弐歩

 右の通相違無御座候、尤連々荒地ニ相成作付等ー向出来不申候、以上

            足立郡下石戸上村
             名 主 兵 三 郎
 文化五年        組 頭 惣   助
  辰五月        百姓代 七 兵 衛

 浅岡彦四郎様

  御手代 黒沼祐太夫様

 此外ニ絵図

 辰五月二日御泊り平方村淸兵衛方ニて我等石戸下分川田や四人ニて参り一所ニ出ス

解説 この資料は、文化五年(一八〇八)下沼流作場の定免切換えに際し、下石戸上村から代官浅岡彦四郎の手代黒沼祐太夫へ提出された反別小前帳の控であり、絵図を添え石戸三か村と川田谷村の代表が、手代の出向先の平方村(現上尾市)淸兵衛方まで届けている。
この流作場の内四反四畝一五歩は寛政七年(一七九五)高入となったが、年貢徴収方法も同十年には検見から定免となり、さらに文政十一年(一八二八)には検見入りとなり、翌十二年からは租率が引きあげられ再び定免となっている。またこの資料をみると、反高(たんだか)(高に結びにくい収穫不定の粗悪地)二町一反九畝一五歩も右同断(享和三亥年〜文化四卯年迄定免)となっており、高入場と同様に扱われていたことがわかる。このように「連々荒地に相成作付等一向出来不申候」という程の最も不安定で劣悪な流作場さえも、領主は高入れしたり、定免法の適用地として年貢増徴を行っていた。

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