北本市史 資料編 近世

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第2章 村の生活

第2節 年貢の納入

1 年貢割付状

92 年不詳卯十一月 宮内村年貢割付状
  (宮内 大島隆三家文書二七)

資料92 宮内村年貢割付状

(宮内 大島隆三家文書)

鴻巣領宮内上下共戌御年貢取割付の事
一米弐百六拾壱表(俵)七升壱合 可納者也
一永楽参拾弍貫五百拾七文    同
右は当月中可有皆済者也仍如件
           北河作七(花押)
  戌十一月七日
    右の百姓中  秋山長吉(花押)


解説 この資料は慶長十五年(一六一〇)頃のもので、市域に遺されているものの中で最も古い年貢割付状(年貢納入命令書)と思われる。発給者は幕府代官であろう。
宛名は「右の百姓中」となっているが、差出人よリ上部に書かれている。このような形式は、近世を通しての一般的形式ではなく、幕領の場合でみると寛永後期から差出人の代官名を日付の下に大きく書き、宛名の名主百姓を文書の奥隅に小さく書くようになり、このような高圧的な傾向は幕末に向うほど甚しくなる。このような位置の逆転は、その時期に幕藩体制が確立していつたことと関係していた。
割付状の内容は、表題の次に総年貢額を掲げ、一一月中に年貢を皆済すべき旨が記されているだけのたいへん簡略なものであるが、これは江戸時代初期においては、年貢村請も少数の有力農民(初期本百姓)の請負であったためであろう。田は米、畑は永楽銭で表わされているが、明国からの輸入銭である永楽銭は質がよいので銭の基準とされ、永楽銭一が鐚銭四と公定されていたが、慶長十三年(一六〇八)通用が禁止された。そして、その後は畑年貢等の基準高としてのみ用いられることになった。
また表題は「鴻巣領宮内上下・・・・」となっているが、『新編武蔵風土記稿』の宮内村の条に「当村上下を分ちしを尋ぬるに、慶長の頃の記録に宮内上下とあれど、是は私に唱へしまでにて公に申すにはあらざるべし・・・・」とあるように、当時すでに宮内村が上下に分かれていたわけではなく、貞享五年 (一六八八)の年貢皆済目録(資料96)に初めて下宮内村と見えることなどを考えると、正式に上下と唱えるようになったのはこのころからであろう。

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