北本市史 資料編 近世

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第2章 村の生活

第2節 年貢の納入

2 年貢皆済目録

96 貞享五年(一六八八)五月 下宮内村年貢皆済目録
  (宮内 大島隆三家文書一四)
     卯御年貢請取の事

 一 米三拾四石六斗弐升八合田方
                下宮内村
 一 永三拾貫四百拾五文畑方


   外
 一 永四拾八文綿弐割出
 一 米九斗三升六合口米
 一 永九百拾四文口永
 米合三拾五石五斗六升四合
 永合三拾壱貫三百七拾七文金納
   右納方
 米壱斗四升八合ハ大豆弐斗九升六合ニて納
 米三拾五石四斗壱升六合米納
右の通貞享四卯御年貢請取皆済也
 貞享五年辰五月  中村吉右衛門 ㊞
         名主中
解説 この資料は、貞享五年(一六八八)の年貢皆済目録(年貢請取状)であり下宮内村の初見である。因に同二年(一六八五)までは「宮内村太郎左衛門分」とあり、孫右衛門分と二組に分かれていたことはわかるが、いつから上・下と称するようになったかは資料を欠き不明である。
資料中の口米・口永とは本年貢に対する付加税の一種で、米納の本租に付加するものを口米、金納の本租に付加するものを口永と称した。一般に関東では米三斗七升入一俵に口米一升、永一〇〇文に口永三文と定められていた。また年貢米のうち壱斗四升八合は大豆(二斗九升六合)で納入しているが、この大豆は副食物・味料原料(味噌油など)として日常生活に欠かせないものであった。そのため幕府は貞享四年(一六八七)関東に大豆・荏実の賦課徴収を命じたのである。
さらに前掲の延宝四年(一六七六)の資料で見ると、種借利米というのがある。これは同二年・三年と続いた洪水・飢饉のために、年貢納入どころか翌年の作付用の種籾もないということになり種借を願い出たもので、利息をつけて返還しなければならなかったのである。全体の量や利率、何か年賦か等は不明であるが、百姓にとっては飢饉の上に利息まで加わり、結局負担の増加を強いられることになったのである。差出人の関口弥五左衛門、中村吉右衛門は伊奈氏の手代である。

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