北本市史 資料編 近世

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第2章 村の生活

第3節 産業と金融

江戸時代の産業の基盤は、言うまでもなく農業である。したがって、農業に従事する農民は身分的にも職人・商人の上位に位置づけられていた。しかし、幕府の政策は、慶安二年(一六四九)の御触書にも「百姓ハ分別もなく末の考もなきものニ候・・・・」と記されているとおり、農民は専ら年貢を納める道具とみなされていたと言ってもよかろう。しかし、江戸中期以降、商品経済の進展に伴って米作のほかに商品作物の生産が見られるようになった。
市域に残る資料のなかでこれらに関する特色のあるものをあげると、江戸後期に盛んになったさつま芋と紅花栽培に関する資料がある。そのほか、綿に関する資料も三点ほどあり、類例の少ない資料として注目される。
前に述べたように、江戸中期以降、農村に商品経済が浸透し、農民の中には農業の傍ら醸造や質屋を営む者、あるいは、商人や職人として働く者が出てきた。そしてその従事した諸業を農間余業と呼び幕府は農業の発展を阻害するものとして極力押えた。市域においても富裕階層が営んだ酒造業・醤油醸造業があったが、そのほか現在も高尾に残る指物(さしもの)職人(タンス)を裏づける資料が発見され興味深い。
一方、金融に関しては、庶民の金融機関として質屋や互助機能を果たした頼母子講もみられた。特に頼母子講の資料(資料127)をみると近隣の村々にまで講員が広がっており、額も大きい。これら講の結成も目的によって異なり識員の構成も様々であった。
江戸時代においては、田畑は農民にとって生命であり、幕府としても農民を土地に固定化することが絶対条件であった。当然のことながら田畑の売買は禁止されていた。しかし、実態としては、年貢上納に窮した農民は質地証文を書いて借金し、やがて質流地となって田畑を手放していくケ—スが多かった。農民の階層分化はこうして進行したのである。

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