北本市史 資料編 近世

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第2章 村の生活

第3節 産業と金融

1 さつま芋出入一件

104 万延元年(一八六〇)八月 鴻巣宿さつま芋問屋新規取立につき和解議定
  (鴻巣市 松村茂家文書)
     為取替議定の事
村々産物薩摩芋売買の儀ニ付、此度鴻巣宿八百屋渡世の者申合、新規問屋と相定荷主より相対売買不為致八百屋の外売買差留、同人方ニて売買致為口銭百文ニ付弐文宛取之、時の相場江百文安差加江銭懸ケ致金子二て相渡、尤売買ニ相成り候薩摩芋荷主より売先迄為附送、且又同宿先々江引越し候分も迷惑申之村々一同難儀ニ相成り候ニ付、八百屋方江掛合既ニ出訴ニも可相成処扱人立入り示談行届き左の通り取極
薩摩芋売捌の儀は、鴻巣宿ニて此度相定候問屋の儀は已来急度相止メ、先規の通り荷主より勝手次第相対売買可致事
此度口銭として百文ニ付弐文宛取候分已来相止メ可申候、銭相場の義は先前の通時の相場を以金買ニ致し可申事
此度扱人立入り取扱ニ相成り候趣意として、当八月より同十二月晦日限り壱俵ニ付四文宛売主より差出し可申候、勿論来ル酉正月より急度相止メ先規の通り取懸り不致売買致可申事
時宜ニ寄鴻巣宿先々迄引越し候薩摩芋荷物は売主任存意ニ何方江売捌候ても不苦事
荷主より相対売致し候共其場江積置売先江八買請候者共より早々送り可申事
右の通り示談取極和融相整候上は、双方無申分向後相互二書面の趣堅相守り可申候、為後日連印為取替置申処如件
      給々八拾弍ヶ村惣代
         本宿村
 万延元庚申年    名主 三郎兵衛
     八月日
         中丸村
           名主 丈   輔
         下石戸村
           名主 徳 太 郎
  鴻巣宿    小泉村
    百姓     名主 蝶右衛門
     扱人
     九 兵 衛 下加村
            名主 源左衛門
    同 次左衛門 鴻巣宿
            八百屋
   上谷村       喜 三 郎
    同 酉  蔵
         同   勝 太 郎
   深井村
    同 留  吉 同 幸   七
   同村組合    同 久右衛門
    大惣代名主
      三郎兵衛 同 与   市
           同   兵右衛門
  
解説 さつま芋はヒルガオ科の多年草で、原産地は中南米。十七世紀前半に中国・琉球を経て九州に渡来した。江戸中期の蘭学者青木昆陽の上申により八代将軍徳川吉宗は救慌作物として栽培を奨励した。幕末に至り市域をはじめ近隣宿村では、これを商品作物として栽培し鴻巣宿へあるいは行田、熊谷宿まで持参し直接売買していた。
これに目をつけた鴻巣宿の六人の八百屋が問屋仲間を作り、農民の直接売買を禁止して利潤を得ようと企てた。これに対し大宮以北から市域にまたがる村々が結束して反対した。
資料103は市域外の文書であるが、相談の呼掛人に市域の本宿村、下石戸上村、上中丸村の村役人の名も見え、中心的役割を果たしていたことが窺える。また、八百屋方と従来どおりとする交渉をするが、不成立の場合の訴訟費用を村高割と定めたほか、後に交渉が不成立におわり出訴したことなどを関係六九か村が連名で確認したものである。
資料104は鴻巣宿でさつま芋を売買する村々八二か村が宿内六人の八百屋を訴えたのに対し、扱人を立て示談を成立させ、両者で取替した議定である。
内容をみると、ほぼ村々の言い分が認められ従来どおりとなったが、本年に限り八月から一二月晦日まで一俵につき四文を差出すこととし、八百屋方の顔も立てるものであった。なお、同文の資料は市域本宿の岡野正家にも残っているが、後半を欠くので本資料を使用した。

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