北本市史 資料編 近世
第2章 村の生活
第3節 産業と金融
2 紅花・桐・綿
114 正徳五年(一七一五)七月 下石戸上村納綿帳(下石戸上 吉田眞士家文書四九四)
資料114 下石戸上村納綿帳
(下石戸下 吉田眞士家文書)
「
正徳五年乙未
未 ノ 納 綿 帳
七月三日 下石戸上村
」
一 | 下綿廿壱匁 | 七 兵 衛 | |
内七匁 | 長 太 | ||
同壱匁 | 徳右衛門 | ||
一 | 下廿壱匁 | 佐次兵衛 | |
内壱匁 | 太郎右衛門 | ||
同六匁 | 利右衛門 | ||
同五匁 | 孫右衛門 | ||
一 | 下拾六匁 | 孫 兵 衛 | |
内四匁 | 権 兵 衛 | ||
同壱匁 | 安右衛門 | ||
同壱匁 | 弥右衛門 | ||
同五匁 | 文右衛門 | ||
一 | 下廿三匁 | 作 兵 衛 | |
内六匁 | 太郎兵衛 | ||
同五匁 | 伊 兵 衛 | ||
同三匁 | 勘 兵 衛 | ||
一 | 下廿三匁 | 重 兵 衛 | |
内六匁 | 忠 兵 衛 | ||
同弐匁 | 半右衛門分 | ||
同六匁 | 太郎左衛門 | ||
一 | 下廿六匁 | 久右衛門 | |
内五匁 | 仁右衛門 | ||
同四匁 | 六右衛門 | ||
同四匁 | 茂左衛門 | ||
同四匁 | 長左衛門 | ||
同四匁 | 忠左衛門 | ||
一 | 下拾七匁 | 七左衛門 | |
内四匁 | 太 兵 衛 | ||
同三匁 | 門左衛門 | ||
同弐匁 | 伝 兵 衛 | ||
一 | 下々廿六匁 | 覚右衛門 | |
一 | 下々廿三匁 | 佐 兵 衛 | |
内四匁 | 太 兵 衛 | ||
同四匁 | 長 兵 衛 | ||
同弐匁 | 太郎兵衛 | ||
同弐匁 | 与右衛門 | ||
同弐匁 | 安右衛門 | ||
同弐匁 | 八 兵 衛 | ||
一 | 下廿壱匁 | 惣 兵 衛 | |
内四匁 | 次郎右衛門 | ||
同四匁 | 伝 兵 衛 | ||
同四匁 | 権 兵 衛 | ||
同三匁 | 重右衛門 | ||
一 | 下拾九匁 | 七郎右衛門 | |
内弐匁 | 善右衛門 | ||
同弐匁 | 小左衛門 | ||
一 | 中拾八匁 | 三左衛門 | |
内四匁 | 与 平 次 | ||
同三匁 | 甚右衛門 | ||
同三匁 | 揚 門 | ||
一 | 下々廿六匁 | 伝 兵 衛 | |
内六匁 | 佐右衛門 | ||
同四匁 | 庄 兵 衛 | ||
同四匁 | 平左衛門 | ||
同三匁 | 千 太 | ||
一 | 下廿九匁 | 吉 十 郎 | |
内七匁 | 長 兵 衛 | ||
同五匁 | 彦 二 郎 | ||
同弐匁 | 彦 四 郎 | ||
同六匁 | 太郎左衛門 | ||
同壱匁 | 七 兵 衛 | ||
一 | 中拾八匁 | 与右衛門 | |
内五匁 | 善左衛門 | ||
同五匁 | 権 兵 衛 | ||
一 | 下廿九匁 | 彦 兵 衛 | |
一 | 下四拾匁 | 善 兵 衛 | |
一 | 下拾九匁 | 勘左衛門 | |
内七匁 | 甚右衛門 | ||
同弐匁 | 久右衛門 | ||
一 | 下拾九匁 | 六右衛門 | |
内五匁 | 六 兵 衛 | ||
同三匁 | 杢左衛門 | ||
同五匁 | 新 八 | ||
一 | 中廿匁 | 弥 兵 衛 | |
内五匁 | 兵 五 郎 | ||
同三匁 | 勘左衛門 | ||
一 | 下拾弐匁 | 平右衛門 | |
内四匁 | 与 兵 衛 | ||
同三匁 | 善 三 郎 | ||
一 | 下廿四匁 | 又 兵 衛 | |
内弐匁 | 才 兵 衛 | ||
同壱匁 | 覚右衛門 | ||
同三匁 | 平左衛門 | ||
同弐匁 | 長 二 郎 | ||
同四匁 | 忠 兵 衛 | ||
一 | 下三拾九匁 | 源 八 | |
一 | 下々廿三匁 | 作右衛門 | |
内七匁 | 覚左衛門 | ||
一 | 下廿士壱匁 | 六 兵 衛 | |
内弐匁 | 門 兵 衛 | ||
同七匁 | 喜 兵 衛 | ||
同三匁 | 孫 兵 衛 | ||
一 | 下廿弐匁 | 与 平 次 | |
内六匁 | 徳左衛門 | ||
同三匁 | 与四右衛門 | ||
同壱匁 | 四郎左衛門 | ||
一 | 下廿匁 | 武 兵 衛 | |
内五匁 | 喜右衛門 | ||
同四匁 | 久 兵 衛 | ||
同三匁 | 武右衛門 |
小数〆弍拾七
吉右衛門 ㊞
未ノ七月三日
解説 県内では天正八年(一五八〇)に熊谷で木綿売買の記録があるほか、岩槻は近世後期から木綿の産地として名高い。また県内に残る村明細帳をみると、女子が木綿関係の仕事をする例が多い。
この資料は市域の「木綿」に関するものである。市域に残る木綿関係の資料は多くはないが、同類のものとして正徳六年(一七一六)の『納綿場帳』、享保十五年(一七三〇)の『綿納帳』の二点(吉田眞士家文書四九五・五九八)があるほか、宮内村が年貢の小物成として「綿永」を納めたことを示す年貢受取状(大島家文書)や本宿村への年貢割付状と年貢皆済目録(岡野正家文書)にも「綿永」の記載がみえる。このように市域でも木綿栽培が盛んであったことが窺える。この資料では木綿に等級があるほか、小作人の分と思われる数人分を合わせて納めている例もみられる。小物成の木綿の納め方を示す具体的事例の資料である。また綿を計る専用の綿秤もあった(資料140)。