北本市史 資料編 近世
第2章 村の生活
第3節 産業と金融
4 酒造・醤油造
119 万延元年(一八六〇)十月 酒造高半高造につき御触酒造人請書(下石戸上 吉田眞士家文書七〇)
(表紙)
「
御 請 書
酒造人共
」
差上申御請書の事
諸国酒造の義三分一相減三分二酒造可致旨天保十二丑年相触候処、去ル未年関東筋出水等ニて米価引上ケ関八州酒造半高造相触候処、当年上方東海道筋度々出水等有之引続米穀高直の趣相聞候ニ付、追て及沙汰候迄諸国酒造の蔵銘々鑑札高の内半高相減半高酒造可致候、尤隠造過造等無之様取締方都て是迄の通相心得弥厳重改方可申付候、若隠造過造致ニおいてハ其者ハ勿論、其所の役人迄吟味の上急度可申付候条心得違無之様可致候、前書御触の趣被仰渡承知奉畏候、然上は御触の義堅相守隠造過造等不仕心得違無之様正路ニ渡世可仕候、仍之御謂書差上申候、以上
御知行所
足立郡石戸宿村
万延元年 百姓寅吉店
申十月 酒造人 友 七 ㊞
名主見習 鎮 蔵 ㊞
上川田谷村
酒造人 政 吉 ㊞
名主喜助店
同 利左衛門 ㊞
名主 紋 太 郎 ㊞
御在役所
解説 酒造米も年貢米と同じ米であり、幕府は米の不作などにより米価が上がると、酒造米を制限して米価の安定に努めた。
幕府は、天保十二年(ー八四一)に全国の酒造人に対し株高の三分の二造を命じていたが、前年の安政元年(一八五四)、関東地方が出水で不作となったので、関八州の酒造をさらに株高の半分に減じていた。本年は上方から東海道にかけて度々出水し、米価も引続き高値なので、当分の間全国の酒造人に株高の半高造を命じ、隠し造り(密造)や過造する者は厳重に取締るとした。こうした幕府の触に対して、石戸宿の百姓寅吉に借家している酒造人友七らが、厳守する旨の請書を提出したものである。