北本市史 資料編 近世

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第2章 村の生活

第4節 水の管理と争い

3 備前堤出入

146 享和二年(一八〇二)八月 足立郡小針領家村の備前堤勝手上置差止め願
  (桶川市 本木治家文書)
  乍恐以書付御訴訟奉申上候
    武州足立郡鴻巣領弐拾四ヶ村惣代
   酒井但馬守知行所
    同州同郡五町台村
      訴訟人  名主 礒右衛門
    同州同郡
           名主
    同
   永井
    同州同郡小針領家村
      相手     名主
   中山
    同州同郡同村
      同      名主
右訴訟人礒右衛門奉申上候、私共村々の儀元荒川付村々ニて、平生小水ニても上郷村々悪水落込、年々水溢ニ罷成候ニ付、内郷ニ准土手先年より被仰付候処、字宮地堤の儀は御定杭被仰付候間、手入等一円相成不申、相手村方堤の儀は御定杭無之候ニ付、連々我儘ニ手入等仕、私共故障の旨及掛合候ても一向取敢不申難儀仕候、然処当六月大出水の砌猶又土俵を以上置仕、其上杭木打の筵張等仕候故、私共村々水難相嵩、田畑水腐仕難儀至極仕候、何卒以御慈悲相手の者共被召出、御吟味の上先規の通り宮地堤ニ准、是迄の上置取払、已来我儘ニ手入不仕候様被仰付被下置度奉願上候、右願の通り御聞済被成下置候ハゝ、水難村々相助難有仕合奉存候、以上
     浅岡彦四郎御代官所
      武州足立郡鴻巣宿
         名主 治 兵 衛 ㊞
  享和二戌年八月

     上田犀之助
           知行所
     小林新三郎

      同州同郡上生出塚村
         名主 八郎右衛門 ㊞

     細田久左衛門知行所
      同州同郡下生出塚村
         名主 平   八 ㊞

     大河内金兵衛知行所
      同州同郡中曽根村
       各主代組頭 勇右衛門 ㊞

     西尾伊兵衛知行所
      同州同郡南下谷村
         名主 弥 兵 衛 ㊞

     同知行所
      同州同郡中下谷村
       名主代組頭 半左衛門 ㊞

     藤堂駒五郎知行所
     世尊院寺領
      同州同郡上常光村
       名主代組頭 仙 次 郎 ㊞

     内藤伊織知行所
     数原玄英
      同州同郡上宮内村
         名主 三   平 ㊞
         同  彦 兵 衛 ㊞

     小林新三郎知行所
      同州同郡下宮内村
       名主代組頭弥五右衛門 ㊞

     日下部金三郎知行所
      同州同郡古市場村
         名主 甚五左衛門 ㊞

     藤堂駒五郎知行所
      同州同郡上谷村      
       名主代組頭清右衛門  ㊞

     大河内金兵衛知行所
      同州同郡下上谷村
         名主 利右衛門  ㊞

     日下部権左衛門知行所
      同州同郡下深井村
         名主 三郎兵衛  ㊞

     日下部金三郎知行所
      同州同郡上深井村
         名主 伊 勢 松 ㊞

     三上因幡守知行所
      同州同郡北下谷村
         名主 小左衛門  ㊞

     横田重郎兵衛知行所
      同州同郡山中村
       名主代組頭幸   七 ㊞

     横田重郎兵衛知行所
     阿部甚三郎
      同州同郡別所村
         名主 源   七 ㊞

     松平大和守領分
     戸田土佐守知行所
     小林新三郎知行所
     上田犀之介知行所
      同州同郡下常光村
         名主 伴   吉 ㊞
   
     秋元但馬守知行所
      同州同郡篠津村
       名主代組頭 伴  七 ㊞

     右同領
      同州同郡舎人新田
         名主 勘 太 夫 ㊞

     松平大和守領分
     数原玄英知行所
      同州同郡下加納村
         名主 勘 太 夫 ㊞ 
       
     多門一次郎知行所
      同州同郡上加納村
         名主 茂   七 ㊞

     前田半右衛門知行所
     岡八郎兵衛
      同州同郡花野木村
         名主 亀 之 助 ㊞

     酒井但馬守知行所
      同州同郡五町台村
         名主 磯右衛門  ㊞
(後欠)
解説 備前堤は寛永年問(一六二四〜四四)に江戸幕府の代官頭(関東郡代)伊奈備前守忠次が綾瀬川流域の低湿地を元荒川・赤堀川の水害から守るために築いた堤防である。その規模は小針領家村(現桶川市)から高虫村(現蓮田市)に至る約三二五間、馬踏幅二間、敷幅約七間三尺、高さ九尺である。この堤は市域東部を流れる赤堀川の水流を堰止めて元荒川に落すが、長雨や大風雨で異常増水の時は、備前堤の上流の村々は長期間湛水するため大きな被害が出た。また逆に堤が決壊すると下流の村々にこれまた大きな被害が出た。
そこで、大洪水のたびに備前堤を挟んで利害の対立する上流、下流の村々が争った。堤の上に土を盛って補強する下流の村々と、堤を切崩して少しでも湛水を放流しようとする村々の抗争である。
この資料は後欠の文書であるが、備前堤関係で市域の村が登場する古い文書であるので取上げた。下流の村々が勝手に堤の上置きをしているのを元荒川・赤堀川流域の村々が訴えたものである。その後もしばしば備前堤をめぐる訴訟は記録されているが、特に文政七年(一八二四)には堤を切崩そうと数艘の船で上流の村々から押寄せ争った。その後文政十年堤の高さを規定する御定杭が打たれ、ようやく争いが収まった。文書中の宮地堤は、鴻巣宿地内の騎西領用水の堰の堤と思われる。

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