北本市史 資料編 近世
第2章 村の生活
第4節 水の管理と争い
4 荒川通吉見領堤外伐払出入一件
147 貞享二年(一六八五)六月 荒川通吉見領大囲堤外伐払出入につき裁許状(荒井 矢部洋蔵家文書一〇)
武州忍領と下吉見領争論裁許の条々
一荒川大堤の外は古来為水開場の所、下吉見領百姓築立候土手畢竟為水流の障の間、従上吉見領境至須戸野谷削取之、荒川北際の地形と低昂可致一様、従御成橋新井新田迄は畠の地形並二可削之、水押切其外地形低所は可加置土、従一本杉至須戸野谷従川岸幅拾間、従御成橋至高尾渡弐拾間、従高尾渡至新井新田三拾間葭栽立候儀免許之、但傍示の南江一切栽出不可事
一川辺民屋有来竹木は其儘差置之、向後新規の住所一切不可栽囲の事
資料147 荒川通吉見領大囲堤外伐払出入につき裁許状
(荒井 矢部洋蔵家文書)
一石戸領馬室村土手是又下吉見領同前可削之事
一上吉見領小八林村の内新土手六ヶ所弐百三拾間余有之今般雖不渉争論以来可為水の障の条可削去之事
右所論荒川岸土手の儀、近年新規ニ築立の由忍領百姓訴之、拾五年以前従新田開発の時築之、年々致修理の旨下吉見領百姓答之、土手新古の異論度々雖及対決就不分明、為御検使伊奈半十郎・米倉六郎右衛門被差遣遂検分之所、川岸の土手所詮可為水開の障段歴然也、依之各加了簡如此裁断畢、為後証絵図令裏書押印形双方江下置の間永可相守者也
貞享弐丑年六月十一日
隠 岐 御印
伯 耆
備 前
安 房
飛 騨
淡 路
内 記
山 城
豊 後
加 賀