北本市史 資料編 近世

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第2章 村の生活

第4節 水の管理と争い

4 荒川通吉見領堤外伐払出入一件

150 安永三年(一七七四)三月 荒川通吉見領大囲堤外伐払出入済口証文
  (荒井 矢部洋蔵家文書一二)
     差上申済口証文ノ事
武州忍領大芦・中野両村外拾二ケ村奉願上候ハ、荒川両縁地形高低竹木伐払ノ義ハ 安藤弾正少弼様へ御願申上候ニ付、当二月廿五日御差日ノ御裏御尊判頂戴仕、吉見領・石戸領右両領村々ニ相附候処絵図出来兼候ニ付、迄御日延奉願上双方得心ノ上内済仕候、右ノ義ハ貞享・寛延両年ノ御裁許御先判御座候処聊違背可仕様無御座由ニテ、早速熟談仕御先判ノ通水盛仕、川両縁地形高低平均自然生ノ竹木目懸り等御座候場所、御先判ノ通双方伐払申候筈熟談仕候、然ル上八此義二付何ニテモ御願ケ間敷義無御座候、偏二御威光卜難有仕合奉存候、依之双方連判ヲ以済口証文差上申処如件

            訴訟人
  安永三午年三月       連判
            返答人

   御評定所様

     一札ノ事
武州忍領荒川通村々申上候ハ、忍領・吉見領川通ノ義ハ御先判御座候処、吉見領新規二竹木土手築立申候由申之吉見領村々申候ハ畑陸同様ノ置土ノ由申之今般出入ニ及候ニ付、双方ノ争論扱ヲ以テ内済仕候趣意ハ荒川通ノ義ハ御先判も御座候由、忍領・吉見領・石戸領川通高キ処八削取、低所ハ置土ヲ加ヒ双方一様ニ可仕候、尤川通並竹木御先判ノ通家々ノ間迄伐払、寛延三年以来新規ノ百姓家相建候得共、是迄住居候事故双方其分ニ差置、以来ハ新規ノ家作決テ致間敷候、尤水開ノ田畑へ水除体ノ植木榛木一切植申間敷候、勿論是迄右場所ニ自然栄ニ生長致候竹木双方共ニ根堀取可申候、荒川通ノ義ハ度々及出入候間、以来争論ニ為不及申済口  御奉行所様へ差上候ハゝ、早々双方村々致連印御普請役御見廻り御出役御願可申候不被仰付候ハ々、忍御城主様ノ義ハ忍領川通御掛り御座候間、吉見領・忍領川通水行御支配請申度願相立可申候、此義モ不相立候ハ、忍領ニテ彦人吉見領・石戸領ニテ壱人水行見廻リ相立可申候、願中ハ勿論以来迚モ雑用相懸リ候ニ付困窮二及候間、相休可申等卜双方決テ申間敷候、勿論荒川通御普請有之節ハ、御先判ノ通り申上前後平均御普請仕立候様相互ニ可仕候、依之双方得心ノ上内済証文取替申候上八重テ異論無御座候、為後証依テ如件
  安永三年午三月

     一札ノ事
吉見領荒川縁通竹木伐払地形高低家作等ノ義ハ、貞享・寛延両年ノ御裁許有之候処、川縁附村々相怠り候ニ付、此度忍領ヨリ又々御尊判相附候処、先前御尊判有之場ニ候得ハ、幾重ニモ在所二於テ忍領へ致詫内済可致処、等閑成致方ノ村々多依之御尊判名前ノ村々不残江戸表へ罷出内済致候、左候得ハ荒川縁付村々怠リヨリ事起リ却テ本田並伐払無之、新田村々モ入用等モ相掛リ難義ニ相成候間、在所ニテ内済致候得ハ雑用不相掛候等閑ナル村々二ヒカレ無用ノ雑用相掛リ難義ニ付、伐払無之村々ニテハ重テ怠リ無之様忍領同様ニ御願モ可致処、ー領ノ因ヲ存知此度ハ相願不申候得共、以来ハ川縁附村々ハ勿論川縁無之新田村々木其外御先判相怠リ忍領目懸リニ相成又々御尊判被相附候ハ、、右ニ付被召出ノ路用雑用其外一件ノ入用、無滞怠リ村ヨリ組合村々へ差出シ可申候、其節遅滞ニ及候ハ、、無怠組合村々ヨリ忍領同様相願候トモ恨ケ間敷儀申間敷候、為後日証組合村々堅メ証文仍テ如件
  安永三午年一二月
右ノ本書拙者方ニ預リ置申候、組合ニテ入用ノ節ハ無相違差出シ可申候、以上
         谷口村
          名主 甚   蔵
    廿七ヶ村
御名主中

解説 荒川は寛永年間(一六二四〜四四)に瀬替えされ、現在の流路となった。吉見領や川島領では水害を防ぐ大囲堤を築いたので、従来より水行が悪くなった。その上に、大囲堤の堤外に新たに田畑ができ、それを守る堤が築かれたり、人家ができることは一層水行の妨げとなった。
資料147は荒川左岸の忍領の村々が、対岸の吉見領の村々で新規に畑囲堤を築き、人家を建て、竹木を植えたので荒川水行の障害になると撤去を求め出訴した。幕府は、①上吉見領境から須戸野谷は土手を左岸と同じ高さとする。②御成橋から新井新田までの土手は畑の高さと同じとする。③一本杉より須戸野谷までは川岸より幅一〇間、御成橋より市域の高尾渡までは二〇間、高尾渡より新井新田までは三〇間というように指定の場所へ葭の植立ては認めるが、今後新たに吉見領の人家、竹木植立ては一切認めない。④石戸領原馬室村(現鴻巣市)の土手は吉見領の高さと同じに削ることなどを裁決した。
資料148は、安永二年(一七七三)、忍領の大芦村(現吹上町)、中野村(現鴻巣市)がこうした裁決があり、さらに宽延三年(一七五〇)の裁決もありながら、三たび吉見領の大囲堤の堤外で土手を築き竹木を植えて水行を妨げ撤去しないこと、また下流滝の馬室村が御成橋の土手を築き竹木を植え、同四軒新田では水除堤を仕立て、原馬室村や市域の高尾村・荒井村が榛木、鴨敷を植えて水行を悪くしたとして出訴したものである。それに対し吉見領村々の返答書と、資料149が下流の高尾・荒井両村を含む四か村の返答書である。いずれも突然の訴訟ということで驚き示談を願い出ている。資料150は、これによって翌安永三年三月に成立した済口証文である。先の裁決の遵守を約束している。

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