北本市史 資料編 近世

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第3章 街道と河岸

第1節 街道

3 桶川宿助郷

185 文政四年(一八二一)八月 桶川宿助郷三五か村議定証文
  (下石戸上 吉田眞土家文書四〇)
(表紙)
「    文政七申年四月
  桶川宿一件書留
   助郷三拾五か村 組合」
    議定証文の事
桶川宿の儀、去午年類焼後より困窮打続、馬持絶等出来人馬役難相勤、依之熟談の上為取替議定いたし候間荷請御繾(継)立無差支相勤来候処、最早議定年限も相立、殊ニ助郷方も連々困窮の趣被申聞、宿方ニて人馬殖方儀被申出候得共、宿方迚も未困窮ニ罷在候ニ付、猶亦熟談の上当巳年より来戌六月晦日迄中年五年の間、人足弐拾九人馬廿九疋相勤候筈ニ、尤人足五人馬五疋是迄の通囲人馬致、残人足廿四人馬廿四疋日々相勤候対談ニて儀定いたし取極候上は、相互ニ右年の通聊違変致間敷候、依之為取替議定一札如件
      桶川宿
文政四巳年  問屋 甚右衛門印
    八月
      同  源三郎印
      同  惣兵衛印
      年寄 七郎右衛門印
      同  嘉平次
      庄屋 伝左衛門
   助郷村々    
     御名主衆中
解説 この資料は、文政四年(一八二一)桶川宿と助郷村々三五か村との問で取りかわした議定書で文政七年に書き留めたものである。
これによると、この年(文化七年か)、桶川宿で火災が起き、それを契機とし、宿はその後年々困窮となり正常な人馬継立が困難となった。そこで、その負担について助郷村々と話し合い、この年以降、五か年間は宿としては、二九人、二九疋(囲人馬、五人五疋を含む)の人馬継立で宿と村との合意をみた文書である。
なお、囲人馬とは、街道の宿々において臨時非常用として囲っておいた人馬である。囲人馬数は時期により場所によりまちまちで、また規定どおり励行されず、むしろ単なる名目だけで、実はそれだけの人馬を減免されたのと同様なことが多かった。このために、実際の臨時の所要人馬の負担が助郷村に転嫁され、それが農村の疲弊増大の一因をなした。

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