北本市史 資料編 近世

全般 >> 北本市史 >> 資料編 >> 近世

第3章 街道と河岸

第1節 街道

道路は、交通手段として人の生活に欠かすことのできないものである。市域には、五街道の一つである中山道が市の中央を南北に貫通している。
中山道は、江戸日本橋から北上し、武州から上州そして信州木曽谷を経て、美濃から近江(滋賀県)の草津で東海道と合流し京都に通じる道で、六九次(宿)、一三六里(五四〇キロメ —トル)の街道である。市域でみると、桶川宿から下石戸下・下中丸・本宿・東間・深井の各村を経て鴻巣宿に至っている。
天保十四年(一八四三)幕府の道中奉行により作成された『中山道宿村大概帳』によれば、二か所の立場(たてば)記述がみえる。一か所は、本宿村字下茶屋、もう一か所は、東間村字三軒茶屋の地である。
江戸期全般を通じ、市域は桶川宿・鴻巣宿に挟まれた間宿(あいのしゅく)としての性格を持つ村々であった。
しかし、文政年間(一八一八~一八三〇)の『新編武蔵国風土記稿』によれば、慶長年間(一五九六~一六一五)まで本宿村の地に宿駅が置かれていたと次のように載せている。
本宿村は「古之宿駅なりしが、慶長年中今の鴻巣に移せしよし、正保の国図には本鴻巣村と記し、元禄の図中には本宿村とあり、古街道の跡は東方に当り云々」とある。
しかし、これが史実か否かについては不明である。ただ、距離からして桶川から熊谷間に一宿を定めるとすれば、本宿の地より鴻巣の方が、ほぼ中間にあたり、そこに宿駅を置いた方が便利であったろうことは推測できる。
さて、中山道は公用のための道として、慶長以降、幕府により整備が進められた。
近世中期になると、交通量の増大に伴い、宿の近傍諸村は助郷村に指定され、人馬継立ての役務を負担するようになった。市域の村々は、桶川宿と鴻巣宿の定助郷村々に、ほぼ二分されている。
また、皇女降嫁、堂上姫君の下向等の大通行の際には、さらに様々な負担がかけられていた。
これらの助郷負担は、農村を疲弊させ、ひいては、宿と助郷村との間で人馬の触れ当てをめぐる争論の大きな原因となった。なかでも、明和元年(一七六四)の伝馬一揆は幕府の威信をゆるがせた大事件であった。

<< 前のページに戻る