北本市史 資料編 近世

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第3章 街道と河岸

第1節 街道

8 和宮様御下向

197 文久元年(一八六一)四月 和宮様御下向御用役人廻宿につき元宿村急廻状
  (桶川市 永山ミサ子氏所藏)
(追て書)
「御泊の御様子ニ御座候御通行ニ候得は、御村役人村境へ御出張出迎御送り可然存候、此旨為念申通し候」
急状を以得御意候、然は此度御下向御用ニ付御徒目附様并御小人目附様京都御出立致、明十三日当宿御通行被遊候ニ付、宿々間の村々巨細絵図面御通行先江認可差出旨大急御達書到来致し候ニ付、其村方往還筋江住居致し居候百姓家の外、名前并右家作表間口江畳数等取調、明十三日正四ッ時迄ニ都て心得居候御村役人の内、当宿甚右衛門方迄取調下書御持参ニて御出向可被成候、右御通迎申度急状を以如此早々、以上
   四月十二日夜 桶川宿
           役人㊞
       元宿村
        三郎兵衛様
        并外御役人中
解説 幕府は、万延元年(一八六〇)、公武合体政策の一つとして、孝明天皇の妹君である和宮の将軍徳川家茂への降嫁を奏請し、同年十月勅許を得た。和宮は、翌文久元年(一八六一)十月二十日に京を発し、同年十一月十三日に桶川宿へ到達している。
従来からも宮家や公家の姫君の将軍家への輿入はあって、いずれも中山道が利用されてきた。これは、東海道は往来が多く、大規模な行列がそれを妨げること、川止めの心配が多いことなどから中山道が利用されていた。
和宮下向の行列は、近世を通じ最大のものであったと言われ、助郷村々の人馬役の負担もたいへんなものであった。
この資料は、文久元年(一八六一)和宮様(第一四代将軍家茂に輿入)御下向に関し、桶川宿役人より元宿村、三郎兵衛他役人に出された急廻状である。
これによると、御下向に先立ち、御徒目附、御小人目附が、明日(一三日)桶川宿に赴いてくる。その際、各宿及び間村々(あいのむら)の詳しい絵図面、資料177『文久元年四月中山道本宿村往還家並絵図』(往還筋の百姓家のほかその名前、家の間口、畳数等)を記し差し出すようにとの急ぎの知らせである。
なお、村役人は村境まで送迎するようにということも記してある。

資料177 中山道本宿村往還家並絵図

(上尾市 吉沢英明氏所蔵)

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