北本市史 資料編 近世

全般 >> 北本市史 >> 資料編 >> 近世

第3章 街道と河岸

第2節 河岸

陸上交通と共に、人々の生活に欠かすことのできないものに河川交通がある。舟運は、市の西端を流れる荒川で盛んに行われていた。
荒川の舟運は、寛永六年(一六二九)の荒川瀬替え以後に発達し、年貢及び諸産物を江戸へ輸送することに利用された。市域では、荒川に面した高尾・荒井・石戸宿にそれぞれ河岸場が置かれ、荷物の揚げ降ろしが行われていた。
三河岸中、高尾河岸は貞享二年(一六八五)の文書(資料147)に「高尾渡」とみえ、元禄三年(一六九〇)の『旌門金鏡類録』(資料201)には高尾河岸とみえている。『新編武蔵風土記稿』には、「船問屋三軒あり、近郷の貢米及び諸色の運送は此の河岸より出せり、高尾河岸といふ。」と記されている。
また、明治九年の『武蔵国郡村誌』には、荷船四〇石積四艘、二〇石積一艘、渡船二艘が用意されていたことが記されている。
高尾河岸跡のすぐ近くに住む船問屋の大手田島和生氏宅には、現在も往時の面影を偲ぶ帆柱やイカリ、御用旗などが残されている。
なお、荒井(新井)河岸が文書中にみえてくるのは元禄九年(一六九六)のこと(『吉見町史下巻』)であり、吉見側では「瀬戸井河岸」と称していたようである。高尾河岸同様、近隣諸地域の貢米及び諸産物の輸送(吉見町、久保田村新井康夫家文書)に利用されていた。ただ、市内に文書が見当たらずその詳細については不明な点が多い。
また、石戸河岸については文書中にみられず、市内の大正期造立の道標に石戸河岸とわずかにみられる程度で、詳細は不明である。

<< 前のページに戻る