北本市史 資料編 近世

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第4章 寺院と文化

第2節 文化

1 寺子屋と和算

211 天保二年(一八三一)七月 大島耕運の碑
  (宮内 大島靖久氏宅)
耕運先生諱宥栄ハ当郷大乗院の男也、入木の道に志深く東都百瀬耕延先生に学ひ、筆法の奥儀を究め、筆道日増に繁栄なりける、惜べし文政十三庚寅年八月十二日五十七齢にして卒す、高年に及ハハ遠き境まても其名聞えむことを本意なしと、門葉志越(を)あわせ師恩を報せん為に碑を造立のことまでを志(し)るす。
 流れ行世に習ひてし飛鳥川
  百瀬に多(た)えぬ水莖のあと
干時天保二辛卯年 武州足立郡
  文月建立        宮内村
              東都

資料211 大島耕運の碑

(宮内 大島靖久氏宅)

          龝長堂
        百瀬耕延門人
      同 野崎耕書女
           十五歳書
解説 『埼玉県教育史』第一巻によれば、江戸時代末期から明治にかけて、市域には五か所の寺子屋があったという。大島耕運の開いたものはその一つで、耕運は特に書に秀でたという。因みに他の四か所を記すと

村名名称師匠没年
深井寿命院法 岫明治十一年
宮内(滝沢氏)滝沢堯精明治十八年
北中丸遍照寺星吉隆証明治三四年
北中丸安養院静 栄文化四年
であり、学制の頒布によって寺子屋は衰退した。

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