北本市史 資料編 近世

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第4章 寺院と文化

第2節 文化

2 地誌と随筆

216 遊暦雑記(抄出)
  (国立公文書館所蔵)
     足立郡東光寺中源の範頼の墓
一 武州足立郡石戸の庄堀之内村西木山東光寺遊行派ハ庵室にひとしき小院なり、此寺内に古碑拾五本あり、おの〱文亀・寛元・永正・文永・文応・貞永・弘安・建武・永徳等にして、年号を鍛付(キリツケ)しもの九本、年月のしれざる碑六本あり、此内八本ハ全く七本ハ破たるあり半損じたるありて、多くは伊予の青石の如きもの又赤鞍馬に似たる石も雑(マジ)リて、都合拾五の碑存す、猶此外多磨郡入間郡と三郡の内には古碑若干ありて、巷陌(コウハク)又は路傍の社地廃地等に数品あり、則ち多摩郡上新井村と野老沢(トコロザワ)村との間に河原宿といふ地に、遊石山観音院新光寺真言に古碑六枚あり、正和二年四月五日、建武五年五月八日、永和三年月日、文明五年十月吉日、元徳元年十月日、又年号なき梵字ばかりの古碑一枚あリ、又同郡久米村長久寺道の左の岡に、元弘三年五月十五日飽間(アクマ)の氏族の為に営し古碑一本あり、又同郡山口領勝楽寺村堂地入には国分寺に髣髴(ホウホツ)たる布目の古瓦を出し、又此辺に古碑拾七本あり、所謂文永三年丙子十二月十二日、嘉元三年乙巳六月八日比丘法阿、嘉元二年二月日、康正三年十月日、文明十年戊戌十二月吉日、永享六年甲寅七月十七日、文和二年癸巳十二月九日、弘安三年五月、永徳三子三月十二日、貞治六子十二月二日、正和元年十月、永享元九月廿一日、文亀三十二月九日、延元五天六月十九日、長禄四年四月、文正元丙戌十月時正、梵字ばかり有て妙尊(高カ)禅尼と鍛付たるもあり、又野老沢に隣りたる下あらい村熊野三社権現の社地にハ、文明十七年十一月十六日と刻し古碑あり、又野火止平林寺にハ弘安二年二月日と鍛付しあり又年月なき古碑も二本あり、又引又村の田子山といふ処にハ暦応三年庚辰十一月日と記せしあり、又高麗郡新堀村にハ高さ壱丈弐尺幅弐尺弐寸厚さ四寸ばかりの古碑ありて、正和三年甲子八月八日と鍛付たり、又多摩郡難波田(ナンバタ)村は難波田弾正左衛門が所産の土地にしてむかし武州横見郡松山の城将上田氏に仕えし長臣たり此村の山形といふ処の西蔵院といえる修験の境内古碑三本あり、正長元年八月十日、永仁此下読かたし三月十日、文安二年十月日、かくの如く処々に古碑若干あり、既に国分寺より小金井橋までの間、路上の巷陌に古碑数多ありて諸人一覧するが如し、今東光寺の古碑もそれらの類ならん、これむかしハ人心廉直正直にして、無縁の墓碑といへども戒名あるものを訐廃(アバキスツ)る事の無慙(ムザン)なれば、土中へ深く埋めたるが故に、近世遠処近処にて邂逅(タマサカ)に掘出して珍奇とするものこれ也、しかるに中古より濁世(ヂヨクセ)に准して人心卑劣し、海内の寺院付届(ツケトドケ)なき無縁の墓処をば訐廃て、石碑を土留の石垣とし溝の縁に用ひ、或は踏越へ渡し墓路の飛石とするなど余りといへば文盲といふべし、むかしハしらず就中田舎ハ正直に偏屈なれば、聊も右体の不仁の行跡(フルマイ)をせざる故に、処々にめづらしき古碑存在すと見ゆ、されバ東光寺中数々の古碑の中に、蒲冠者範頼の古碑といひ伝えし五輪の石塔壱本あり、石の性ハ御影に類せしものにて、石面ザラ〱と而も苔蒸て聴(シカ)と見極がたし、高さ凡三尺余、但し笠石の上の丸石と三ツ目四ツ目の石ハ別石を以て後に補ひ、造り添しものと見ゆ、伝えいふ、慶長年間此辺火災にかゝりしといへば焼崩しをば取捨て、繕ひ修造せしにやあらん、図は下にあらハすが如し、夫範頼の院号ハ大寧寺殿と謚(ヲクリナ)して、武州久良岐郡金沢侍従川(ジジユウガワ)に添て東の方三艘といふ処より湖水に随ひ半路余、東の山際なる小院へ葬り大寧寺曹洞と号する是也則ち四望が獄の裾にして当院の竹林の中央に、範頼の墓碑及び従者の碑も三ツ四ツ傍にあり、竹の雫に甚苔蒸といへども今に現在し、寺にハ範頼自詠の短冊を什宝とし、又過去帳の真最初(マサイショ)に院号戒名年月等をくわしく記して、大寧寺へ参詣する好事の雅人ハ一覧する事也、しかるに足立郡堀之内村東向(光)寺中に五輪の石塔ありて、正治二年二月五日遠行し此地に葬り、明厳大居士と追号せしといふ事甚未審(イブカシ)けれども、退て倩(ツラ〱)思ふにむかし三河守範頼ハ豆州へ下向せしめ、恰配流に似たりなどいふ説によらバ伊豆の国へ下着せしかども、武州足立郡ハ藤九郞盛長が所産の旧地にて、盛長は範頼の舅なれバ聟の因を以て密に己が所産の旧地へ逼塞せしめたる歟、既に盛長静といえる愛妾を預り自分の所産足立郡をこゝろざし、浅草観世音へ具して参詣せしめし旧記もあれば、範頼堀の内村に閑居せしもしるべからず、但し此地にて没故(モツコ)し遺骸をバ大寧寺へ送りし歟、又ハ分骨にてもせし歟、同じ武州の内といへども久良岐郡と足立郡とその行程隔たる事弐拾余里、双方に範頼の古墳ある事博識の判談(断)を待もの也、五輪の古碑の模形左のごとし
     範頼の古跡手植のさくら
一 同寺境内僧房のうしろに蒲桜と号(ナズケ)し名木一株あり、範頼の墓碑は此樹下の正面にすえて、左右の繞(メグリ)に拾五本の古碑存せり、年号の古たる数品ハ前にいふが如し、されば此さくらハむかし三河守範頼此地に逼塞せし折柄、自身手づから植し樹なればとて蒲桜と呼伽(ヨビナラ)ハせしとなん、人皇八十三代土御門院御宇正治元己の未年より、文政八乙の酉としまで七百弐十三年に及べばさくらの樹の齢も永きものと見ゆ、実(ゲニ)も幹のめぐりを試るに帯の上〆を延して三度めぐらして壱尺も足ざる程なれば、凡三抱半ハあるべく樹の高さ凡四五丈、此樹の根より上八九尺と覚しき処より、大枝五股にわかれて四方へ繁茂し、枝先の垂覆(スイフ)する事凡弐拾八九間ハあるべし、譬ていハヾ江戸伝通院内表門通り西側なる衆寮の庭の桜の木振に似て、抜群幹太く巨大なるもの也、花形ハ単(ヒトエ)にて白なりとぞ、花の頃罷らで最(イト)残多し是蒲の冠者のむかし手植なるによりて蒲ざくらと異名し、竟(ツキ)に此地の名木とハなれり、此さくらの繞りには駒よせとかやいえる凡弐間半四方の矢来を、木を以て造りて狼藉を禁じたり、但し正面の中央に木戸あれば中に入て範頼の墓及び拾五本の古碑を見る事也、又此駒よせの外右手に若干の墓碑必至(ヒシ)とならび建たり、此夥しき中にハ又めづらしき古碑もあるべし、総て此界隈ハむかし範頼逼塞し、両三年も住居せしやらん、保養の池、番士坂、慰労の森、精進場、納涼台(スゞミダイ)などいふ小地名ところ〲にあるハ感慨少なからず、去(サレ)ばさくらの樹の巨大にして古木なる、殊更栄長(エイテウ)し七百余年に及ぶものハこれまで見たる事なし、伝え聞、多摩郡こなじ村より北へ入て片和村(ヘンナムラ)の千本ざくらは、往昔よりの古木にしてめづらしき巨大の名木と巷談すれどもいまだ見ざれば評しがたし、今此東光寺中のさくらハ実に目覚しき珍木なれども、頗片鄙(ヘンヒ)の故に好事の雅人もしらざるハ恨といふべし、しかるに今歳文政八乙の酉年四月三日、崎(ママ)玉郡中仙道浦和宿玉蔵院は茶事を嗜(タシナミ)当寺へ入院(ジュイン)せざる前廉(マエカド)よりの茶人のよしにて、鶴岡白蜂ハ繁(シゲ)々一夜泊二夜泊(ヒトヨドマリ二ヤドマリ)に罷りて茶会に遊びしとて、界隈の茶友等屢愚老を誘引しかども茶友隙(ヒマ)あれば我他行(タギヤウ)しがたき用事あり、予閑隙(ヨカンゲキ)あれば信友に障碍(サワリ)ありて去年より兎角齟齬(ソゴ)すれば、茶友の同伴ハ面倒さに社中を壱人相伴ひ、卯月三日辰の刻過る頃首途(カドデ)しつゝ六里に近き街道とハいひながら鄙びたる駅路ハ気転じ心穏に面白く、急ぬ行程も長日の折柄とて未の刻ばかりに玉蔵院真言へ訪(トムラ)ひぬ、折能も現住在宿しける程に彼是と取はやさるゝ内直(ジキ)に用意やしたりけん、風呂へ浴(ユアミ)し頼(ヤガ)て茶屋に入て夜更るまで他事なく清談し、翌四日ハ近隣の茶人両三輩呼集めて茶の湯に逢、猶又夜すがら茶事の物がたりに飽ざるハ真底数奇者(スキシャ)になん、斯て今一両日逗留し近辺の茶人へ伴ハんと引留られしかど、大宮の駅に訪ひ度雅人あり、又同道せし社中は桶川の不動尊へ参詣したき含あれば、又来る盆後に罷らんと兼約(ケンヤク)し立出しが、大宮の駅にて彼堀之内村の一件(イチマキ)を物がたりて見物せよと教えしまゝ、荒々書しるして桶川の駅より左へ入、たづね〱田舎路凡弐里にして件の東光寺へ罷りぬ、彼蒲桜の花ざかりハ立春より五十二三日め頃よしと土人のいえりき、後人逍遥して知ぬへし
解説 著者は津田大浄。江戸小日向の廓然寺の住職であったが、文化八年(一八一一)五一歳で子にその職を譲り、自由の生活に入り、文政十二年(ー八二九)筆をおくまでの一八年間、江戸府内、武房総豆相駿三尾にいたる遊歴の見聞録一〇〇〇編余を執筆した。筆は名所旧跡はもとより風俗・伝説・風景など多彩かつ精細である。
市域では東光寺の範頼の墓とさくらをとりあげ、詳細な観察に加え、古今の知識、他所との比較などのもとに自由奔放に書きしるしている。

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