北本市史 資料編 近世

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第4章 寺院と文化

第2節 文化

2 地誌と随筆

217 玄同放言
  (国立公文書館所蔵)

            東光寺蒲櫻
〔四十二下追加〕 源範頼
            並古碑附

源範頼朝臣は、左馬頭、贈正二位義朝の第六子、母は池田駅(しゅく)の遊女なり、諸家系図遠江国、蒲(かば)の地に生れしにより、蒲冠者と称せらる、今按ずるに遠江国長下郡、浜松の近郷に蒲といふ所あり、こゝなるべし、治承五年、七月十四日、改元養和、閏二月廿三日、志田三郎義廣保暦間記、作義憲、謀反(むほん)し、兵を起して、鎌倉を攻んとせし時、範頼諸将と、小山朝政が陣に加りて、俱(とも)に義廣を討滅ぼしつ、保暦間記に拠るに、この時範頼、鎌倉にあり、武衛の命を受けて、はせて下野に趣きしなり寿永三年四月十六日為後鳥羽院元暦元年、正月、前(さきの)武衛頼朝の命を禀(うけ)て、舎弟義経と俱に、数万騎に将として、源義仲を討て功あり、二月、平氏を摂津の活田(いくた)に襲て、これに捷(かち)ぬ、範頼義経両大将たり六月五日、従五位下に叙し、三河守に任ぜらる、九月、朔、又西征す、元暦二年八月十四日改元文治一、三月、平家を西海に討滅し、範頼凱旋して、鎌倉浜宿の館に在り、建久四年の秋、謀反の聞えあるにより、八月十七日、伊豆国に幽せらる、東鑑遂に誅せられけるとぞ、保暦間記こはなべての人のしれる事なれども、江戸より程遠からぬ田舎に、範頼の墓、並に城迹と唱る処あり、いといぶかしければ、先旧文を抄録して、後に里老の口碑を見(あら)はし、愚按さへしるしつけて、後攻に備るもの左の如し、武蔵国足立郡、石戸荘、堀之内村江戸を距ること十二里なり、中山道、樋川駅の西北より、西に入りて、下石戸に至り、又屋津に至り、左へ諏訪市場に至り、堀の内に至る、樋川の上のかたより、堀の内村に至て、路程二里なり、なる東光寺といふ小道場(こてら)の墓門(はかくち)の傍に、巨桜樹一株(もと)あり、下より瞻(み)る所、四丈許、幹の周(めぐり)匝二丈なり、その枝葉の掩(おほ)ふ限り、左右へ十八丈三十間なりに及べり、樹下に古碑十五本この中、八本全し、七本は断碑なり、石塔婆俗に五輪といふもの一本あり、その碑二本は、既に幹に包れたり、是その樹の巨大になる隨(まま)に、樹と碑と相遒(あいせまり)て、遂に幹の内に入りしなり、碑は片石(いたいし)にして青し、摂津の御影石といふものに似たり、伊豆石なるべし、その勒(ろく)せし年月、幽(かすか)に読る、貞永、寛永、文応、弘安等の号あるもの、尤ふりたり、かゝればこの樹は、六百年来の物なる事疑ふべからず、その辺(ほとり)四面に垣籬(かき)をしたり、一方一丈五尺、その垣破壊すれば里人等修復すといふ、、土人(ところのひと)これを蒲桜と呼做(よびなし)たり、花は単葉にして、山さくらの如し、即、図して下にあらはす、里老伝へていふ、昔この処は、範頼朝臣の城地なりしにより、今なほ堀の内といふ、その城溝は、過半埋れて、田園(たはた)になりたれども、遺溝(なごり)は大きなる池になれり、その深き所は、水下丈余もあらん、又石戸駅これを上石戸と唱ふ、駅路にはあらねども、土人私にしか呼べり、この村は、荒河に添し処なり、堀の内を去ること、四丁あまりなるべし、の脊(うら)に、城山と唱るあり、又東光寺の南のかたに、桶川へ造(いた)る間道(こみち)あり、こゝに石橋あり、これ正門(おおて)の迹なりといひ伝へたり、この石橋の辺に、精進場と唱る処あり、こは範頼朝臣の、せじみし給ひし旧地なり、又番坂、太郎塚、宝塚など唱る処あり、太郎塚は、その伝を失へり、番坂は、番士勤仕の処なり、宝塚は本邑の旧家、小林三郎左衛門が曩祖(なうそ)、高松三郎左衛門は、鎌倉より、範頼朝臣に、隸進(つけまいら)せられし老党なり、その子孫、村長になりたるに、慶長年間失火して、相伝の武器、調度旧記等、すべて烏有(うゆう)になりつ、その庫(くら)の焼跡を、人の踏穢さん事をおそれ、その灰を瘗(うずみ)て、塚に築きしかば、やがて宝塚と呼做たり、この比までは、その家豊なりけるに、後いたく衰へしかば、職を辞して平民になれり、かくて高松を名のらん事、恥かはしくや思ひけん、子孫小林をもて家称とす、今の小林三郎左衛門是なり塚は即その家の北にあり、こゝより精進場まで、道直(なお)くして、六十丈百閒なりばかりなるべし、高松が家門(いえのもん)の迹 今なほその間に遺れり、又云、この地は、昔蒲殿、あしき病に嬰(かか)り玉ふにより、〔頭註〕一説に、範頼は、正治二年二月五日、この地に卒、明巌太居士と追号せり、さくらは、蒲殿手うゑの愛樹なりし、といへり、寺説には聞ことなし、且亡者に戒名つくるは、これより後の事なり、」人界(にんかい)八町四方を隔て、棄られ玉ひし処なり、こゝをもて、その廟所より八町四方は、みな堀の内村なりしに、後漸々(ぜんぜん)に削られて、今は竪のみ八町あり、蒲殿はこの地にして、竟(つい)に世を逝玉ひしかば、今の東光寺の地に葬りつ、桜は墓標(はかしるし)にしたるなり、よりてその樹を蒲桜と唱ふ、樹下なる五輪の石塔は、即 範頼朝臣の墓なり、以上、堀之内
の村長小林松右術門が説話なり、松右衛門、本姓は高松氏、即三郎左衛門が親属なりといふ、又彼東光寺は 縁起いまだ詳(つまびらか)ならず、本堂の額燈籠に、万年山としるせしは、近きころまで住みける僧の、みだりに自号せしなりこの寺は、西木山と号す、河越なる東明寺の子院にて、藤沢の遊行派なり、この寺 慶長中、村長高松生が家より失火せしとき、延焼して寺記伝らず、是よりの後、形(かた)のごとくなる菴室なれば、無住にて過せし年もありけり、今の住持は、河越なる東明寺より入院せしとぞ、東光寺、現在の説話なり解(とく)云、件の巨桜は、曩(さき)に仄(ほのか)に伝聞しかど、なほその詳なる事をしらず、この故に、前集植物部に、収ることを得ざりき、かくて今玆(ことし)の夏に至て、これを友人華山子に謨(はか)るに、彼人、余が為に、東光寺にいゆきて、その巨桜古碑等を写し、且里老を推敲(おしたたき)て、その口碑を獲(え)たる事右の如し、範頼朝臣始終の事は、既に上に抄録せり、その遺趾の、足立郡にあるよしは、古記旧文に所見なし、その事土人無稽(ぶけい)の説に出れども、聊その由なきにあらず、東鑑、巻之十三建久四年八月十七日、範頼幽せらるゝ条(くだり)に、参河守範頼朝臣被向伊豆国、狩野介宗茂(ムネモチ)、宇佐美三郎祐茂(スケモチ)等所預守護也、帰参不可其期(ご)、偏如配流、とのみ記して、この後誅せらるゝの文なし、唯保暦間記中巻、建久四年八月、三河守範頼誅セラル、其故ハ云々(シカシカ)、記せしにより、これより後の物には、皆殺害(せつがい)せらるゝよしをい へれど、必しも間記(かんき)の一書をもて、東鑑を誣(しい)がたし、平治物語、巻三下義経奥州下向事の段の参考に、これらの疑難(ぎなん)ありて云、保暦間記ニ、範頼誅セラルト云、不拠とい へり、範頼果して誅せられなば、東鑑に必書(しる)すべし、しるさヾるは、その謫罰(てきばつ)終(つい)に赦に遇ざればにや、例せば、義経の子は、みな殺されたり、範頼の子二人、官僧になりたれども、その子孫漸々に多かり、罪に軽重あればなり、しかれども、その卒(しゅつ)するの年、定かならざるは不審(いぶかし)、当時忌よしありける歟、今にして知るべからず、又按ずるに、足立郡は、藤九郎盛長が苗宇の地なり、範頼は、盛長の婿なり、その伊豆に幽せらるゝの後、足立氏に預られし歟、或はまうし預りて、今の堀の内村の地に、推籠置(おしこめおき)たるにより、範頼竟に、その地にて終りしにや、こも推量の外なけれども、その由なしとすべ からず、その籠居(ろうきょ)謫罰を、当時忌かくすよしありしかば、土俗謬(あやまり)伝て、蒲殿は、悪病を禀玉ひしにより、人界八町四方を隔て、棄られ玉ひしといふにはあらぬ歟、番坂と唱る処は、警衛(けいえい)の番人のをりし処歟、又高松三郎左衛門といひしものは、当初(そのかみ)足立氏より附たる家臣歟、こはロ碑を助くるに似たれども、東鑑に、範頼の死をしるさヾるに、今その旧跡墳墓ありといふをもて、よく察せずばあるべからず、これを不経(ふけい)の言(こと)とすれば、論なし、もしたま〱中(あた)ることあらば、旧記の遺漏を補ふ一端とならん、又按ずるに、範頼朝臣の子二人、みな僧になれり、長男を範円(ハンエン)といふ、諸家系図第四云、順大寺阿闍梨、母藤盛長 女、季(すえ)を範暁(ハンギョウ)といふ、子孫、なし、範円生為頼吉見三郎為頼生義春吉見太郎頼宗吉見彦二郎子孫多有義春保暦間記作三郎頼氏義世吉見孫太郎 依レ有謀反企、永仁四年、於関東、被搦(からめ)捕畢、保暦間記下巻云、永仁四年十一月廿日、吉見孫太郎義世、三河守範頼四世孫、吉見三郎頼氏男、、謀反ノキコ工有テ召取ル、良基(りょうき)僧正同意之間、遠流セラル、義世ハ龍口(たきのくち)ニテ、首ヲ刎(はね)ラレ畢ヌ、これらの文と、口碑を合し考るに、範頼の長男、範円阿闍梨は、足立盛長の外孫なり、その別院、足立郡になしとすべからず、さらば彼精進場、及(また)城山など唱る処は、範頼の事にはあらで、その子孫の古迹ならん歟、これも亦しるべからず、又彼堀内村を、当初足立氏の所領なりけんと思ふよしは、東鑑に 所見あり、東鏡巻四十三、建長四年七月四日午刻、秋田城介義景妻、女子平産云云、号堀内殿是也、といへり、義景は安達盛長の孫、景盛の子なり、同地名処々にあれば、なほ定かならざれども、今も足立郡に、堀内村あれば、東鑑に云所(いわゆる)堀内殿は、安立郡なる、荘園の名に由れるにはあらぬ歟、女子に荘園を分与へたる事、東鑑に多く見えたり、こは推量の説なれ共、姑(しばら)く管見(かんけん)を録して後考の一端に備ふ、或はいふ、石戸の荘は、鎌倉将軍の時、石戸左衛門尉居れり、石戸氏は、〔頭註〕石戸氏は、何処の人なるをしらざれ共、再按、東鑑巻三十六、寛元三年八月十六日、鶴岡神事条下云、馬場儀如レ常、十列、一番大隅太郎左衛門尉、二番豊後十郎左衛門尉、三番石戸左衛門尉、四番足立太郎左衛門尉、五番云々、大隅と豊後と、石戸と足立と、つがひたるやうなれば、石戸を武蔵の人とする歟、さばれその墓にはあらず、」東鑑に見えたれども、世人しらず、その墓の樹を、蒲桜といふにより、範頼の事とすなるは、土俗の伝(ふかい)会なるべしといへり、しかれども、石戸の事蹟詳ならず、石戸左衛門尉は、東鏡巻三十六、三十七、寛元中、只二ケ所にその姓名見えたり、且彼墓所に、はやく貞永二年、追薦供養の石塔婆あれば、その墓にはあらざるべし、これを里老に問せしに、さる人は、伝へも聞ずといへり、かゝれば或説(わくせつ)も又信(うけ)がたし、その旧迹はとまれかくまれ、桜は世に稀なるものなり、好古の人々いゆきて観るべし。
解説 これは滝沢馬琴が読書の際に抄録したものを綴り合わせた考証随筆で、挿し絵は渡辺崋山の手になる。天・地・植物・人事の各部にわかち、四三項目と別録補遺の項について和漢の書から引用し、馬琴の広い読書と知識を示したもの。この「源ノ範頼 東光寺蒲桜並古碑附」にも、馬琴の本領がよく発揮されている。

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