第4章 寺院と文化
第1節 寺院
2 観化帳
207 寛政九年(一七九七)三月深井村寿命院殿堂再建勧化帳
(深井寿命院文書三六)
(表紙)
「
殿堂再建勧化牒
」
武州足立郡鴻巣領深井村殿林山
寿命院
殿堂再建勧化序
夫因縁は
仏家の
大宗経論の
定規や
法教の
窪隆精藍の
興廃皆因縁にしたがう
然して
聚レ沙為二仏塔一童子の
戯も
皆已成二仏道一とは
金口(ほとけ)の
誠説なれはまして
資財を
投して
仏寺を
造営する
其功徳測量すへからす
抑当院の
草創(はじめ)を
尋ぬるに
紀伝載所なし
相伝文明の
頃円俊上人大法弘通の
霊地三密修錬の
道場や
然共其中間盛衰無レ常永禄元亀の
頃大断檀那深井対馬守平景吉心を
仏乗に
帰し
深く
密教を
信し
居多の
貲を
投捨し
再当院を
創む
締構の
制宏麗厳浄にして
欝(しきりに)として
巨刹(おおてら)と
成天正中東照大神君朱壐(御しゆいん)を
賜はり
法運弥栄仏日増レ輝名徳継レ軋英賢求レ法常に
大法鼓を
声し
大法憧をたてて
四来の
緇素雲のことくに
集り
蟻の
如くに
会し
聞者耳を
聳し
瞻者目を
驚かす
里人深井の
大寺と
称せし
事も
此時にやあらん
実陵谷於変し
滄海揚レ塵と
千古の
格言にして
往し
寛政四年壬子(みずのえね)の
夏不レ料祝融の
灾に
罷り
殿堂坊舎一時に
烏有と
成りぬ
爰に
貧道何の
宿因ありてか
当院に
居を
卜てより
激嘆に
勝てず
方に
今匪石の
弘願を
起し
覆簣(こぼすあじかを)の
微功を
致さんと
欲すれとも
弊衣空鉢自力に
堪かたく
頻りに
十方檀越の
勠レ力にあらすんは
安能志願を
達んや
想に
夫往昔仏在世に
善施(人の名なり)は
金を
投して
天に
生し
徳勝(人の名)は
土を
献して
帝と
成し
事も
全く
施財厚薄を
論せす
其人の
力に
応して
唯随喜供養(よろこびあげる)せは
其功徳甚深かるへし
伏而乞十方檀越有信の
緇素浄財を
我が
願海に
投しゐひて
久からすして
当院復旧せしめは
其功其徳永世不レ
朽再恵日(ほとけのひかり)を
輝し
人天済度(わたす)の
要津とならしめは
本尊鎮守の
冥感にもかなひその
上浄財信施の
真俗男女姓名を
此冊氏に
列らね
永く
壇上に
建置て
信心男女心中求願如意成弁の
丹誠常恒に
怠事なくば
現世には
家運弥繁栄し
当来には
極めて
人天勝妙の
快楽を
得ん
事宛も
響の
声に
応するか
如且は
亦先祖代々の
追福ともならん
事必せり
尓時覚政九のとし
春三月の
轂旦寿命院現住等戒謹而識
資料207 殿堂再建勧化帳
(深井 寿命院文書)
印 印
村次勧化帳呼出し目次
一 上常光村 二 下常光村
三 別所村 四 中曽根村
五 山中村 六 上谷村
七 東間村 八 東間新田
九 深井村 十 上中丸村
十一 下神谷村 十二 花木村
十三 上宮内村彦 十四 下宮内村
十五 上宮内村三 十六 下中丸村
十七 北下谷村 十八 生出塚村上下
十九 中下谷村 二十 南下谷村
廿一 小松原村 廿二 下加納村
廿三 古市場村 廿四 末門惣寺院
一 上常光村寄附名寄帳
一 金三分 荒井金十郎
一 同三分 荒井半蔵
一 同三分 浜野常右衛門
一 同三分 岡田甚兵衛
一 同弐分弐朱 河野平四郎
一 同弐分弐朱 浜野勘右衛門
一 同弐分 長嶋藤吉
一 同弐分 吉田善右衛門
一 同弐分 今成佐五兵衛
一 同弐分 浜野元右衛門
(下略)
解説 勧化序によれば、寿命院の殿堂坊舎は、寛政四年(一七九二)の夏火災にあい焼失した。住職等戒は再建勧化に努め、当院復旧に浄財信施した人々の名簿を作った。それが本牒で、これを本堂壇上において信心男女の繁栄はもとより先祖代々の追福を祈り謝意を表したものである。この勧化牒には二三か村と末門惣寺院三二か寺の寄附が記録されているが、牒末にはさらに近在の篤志家、諸国の関係寺の普請見舞、上棟式当日の祝儀が記されている。
これと全く同じ序文で同年同月の『殿堂再建勧化牒』がある。本牒は「当院殿堂再建諸向寄附第一の書記相済上棟已後筆記第二帳初」とあるように、勧化帳の二冊目で上棟式以後のことが記録されている。第一冊(資料207)と同様大部な牒で広範な地域から浄財が寄せられている。個人的なもの、村や宿名をあげてのもの、「建立講と号し頼母子講中相結」んだもの、他村の光明講から一部をさいたものなど寄附の形態はいろいろある。勿論、等戒住職も近隣の村々を「毎月壱度ツツ廻村」(最初のひと回りは本人、以後使僧)勧化した。
この二冊を詳細に分析することにより、寿命院をめぐる檀家構造や本末寺関係などを知ることができよう。
なお、この二冊の勧化帳と一体のものに、『武州足立郡鴻巣領深井村殿林山寿命院鉤鐘を再鋳と勧奨するの序』という文化十四年(一八一七)十一月の勧化帳がある。寛政四年の火災にあい「鯨鐘響を変じ遠近聞くを失し」た状態であった鐘の再鋳のための勧化牒で、第一冊(資料207)とほぼ同一の村々寺々の範囲が記録されている。
なお、別所の無量寿院にも、焼失した本堂の再建にあずかった慶応二年(一八六六)の勧化簿がある。