北本市史 資料編 近世

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第4章 寺院と文化

第1節 寺院

5 不動尊安置の由来

210 天保九年(一八三八)六月 大山寺開運厄除不動尊附当所安置の由来
  (本宿 岡野正家文書五〇)
(表紙)
「天保九戊戌年六月吉日
大山寺開運厄除不動尊附当所安置の由来
      武州足立郡中山道間の立場
               元宿邨」

相州大山寺
      開運厄除不動尊附当所安置の由来
阿夫利の神社

抑、相州大山寺阿夫利の神社不動尊ハ、其昔大和武尊東夷征伐として御下向此御山に御鎮座ましまして、その勇徳天地に輝き東夷悉く伏し平安治国となさしめ給ふ、是即大和武尊の験光也、其後鎌倉天下の時政宗と言剣の名人阿り、或時位冠正しき老翁降臨し給へ、汝剣の名人の聞え阿り予に剣打て給れと命す、政宗慎て奉拝請日を経て又老翁来るといへともいまた黒打也、研阿遣程し奉るべしと答ふ、まつ其剣一見せんとして御手にとり是予か数百年来望む所の名剣なり、と引提るとひとしく大山寺のかたをさしてとひさりぬ、不思議なるかな天地に光を放ち其道筋草木伐倒れ伏しぬとなん、是全く大山寺不動尊の生霊在か如くなり、今に至るまで此尊像の剣ハ黒打と世人知る所也、此事鎌倉天下高聴有て即威霊恐怖し奉り大伽藍御建立あり、政宗夫より日本無双の名人の聞え阿るも此尊像の霊験の御威徳也、其後乍恐 当御三代様御代御感徳及高聴御建建(立力)、即仁王門に二行の御額面被為遊御掲、是尊像の尊き事民等か言語に述るも恐あり爰に略す、于時享保十九甲寅年初春より疫癘に愁るもの数を知らす、此事を歎き武州埼玉郡下羽生村嶋村甚内、同上羽生領二拾三ヶ村一同志を合せ、大山寺不動尊此度里民の病厄消除なさしめ給ハゝ石像を彫刻し彼霊山に可奉安置と奉祈願、凡日数百五十余日を経て壱人も病に愁ふるもの更になし、気瑞の難有即石像を彫刻し奉連台乗、講人数凡五百余人昼夜を分たす相州大山寺迄凡三拾余里の行程、地に置す肩より肩へ移し奉り登山すへくと一同決着して、即同年六月廿七日の夜右地発足、同廿八日東雲の頃同州足立郡上ハ東間下は元宿村字騎西海道三軒茶屋ト言爰に来る、然る処俄に各肩足痺れ一足も勧む事能す、不思議なるかな此行先いかなる汚穢不浄の障り阿りてや不奉勧、此上は神意をいさめ奉るより他なしと五百余人挙て祝詞しいさめ奉るといへとも更に志るしなし、然るに数百人の内にある老人の日く、是より大山道は西へ入横道也、此地ハ中山道の往来殊に間の立場也、日々数万人往来の地也、爰に御鎮座ましまし数万人ならひに遠近の里民の苦悩を救ひ給んとの神慮なるへしと語す、又傍の人の日く、天に口なし人を以て言するの譬なれハ此老の言葉いかにもと、この事一決して元宿村へ告るに里民挙て悉く伏し奉里、実に神慮ましまさハとて志を合せ東西へ馳めく里、即台石・柱石を石工に仰きて彫刻し、正面に是より川越大山道、左右に武州埼玉郡下羽村、発願主嶋村甚内、同上羽生領二拾三ヶ村、享保十九戊戌甲寅六月廿八日と刻し、比榎の下に奉勧請即聊の一宇造営す、其後安永三甲午年右の通再建す、今また天保九戊戌年凡百六ヶ年に至て享保の時に順し今また再建す、是河は瀬となり瀬は渕となるならひなれは、末世に至りてそのいにしへの志を忘れ朽さらん事を愁へてその趣を聊志るすもの也
      武州足立郡中山道間の立場
         元宿村民等謹て誌
 天保九戊戌年
    六月 日
解説大山講あるいは石尊講は、神奈川県の霊山大山にある雨降山大山寺が、雨乞いに霊験を示すというので、関東・東海地方に広く結集された信仰集団であった。
本資料にのべられていることは、いささか信じがたいが、しかし当時の人々の大山寺に寄せる信仰の一面を知ることができる。なお表紙の村名「武州足立郡中山道間の立場元宿邨」という表現は、村民が元宿村を間の宿と強く意識していたことの証左といえよう。

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