北本市史 資料編 近代

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第1章 政治・行政

第6節 石戸・中丸村歳入歳出予算

地方財政のうち府県財政と町村財政が明確に分化したのは、明治十一年(一八七八)の三新法の一環として公布された地方税規則によって、各町村かぎりの経費については「町村人民ノ協議ニ任セ」ることになってからのことである。すなわち、地方税(府県税)の徴収によつて支弁する費目と町村住民による協議費を区分したわけである。ところが、町村協議費は法的な強制力がなかったため滞納が多かった。そこで、明治十四年四月に土木費の滞納については強制徴収権が与えられ、更に同十七年には、町村協議費の費目を公共的費用に限定し、これらを強制的徴収の対象とした。これによって、町村協議費は、町村の公財政的性格をもった町村費と、それ以外の協議費に分れることになった。やがて、明治二十二年(一八八九)に町村制が施行されると、各町村では歳入・歳出の予算と決算を算定して地方財政の基本型ができあがった。
石戸村と中丸村の村財政については、大正三年(一九一四)までは統計一覧表によって、以後は村政要覧によって知ることができる。資料90は、両村の村政要覧から作成した歳入・歳出である。なお、この資料は市所蔵の行政文書から作成したもので、明治期及び中丸村の昭和十一年度と同十二年度の歳入・歳出は、村政要覧が欠けていたため未記載となった。さらに、昭和四•五年度と昭和十一・十二年度を掲載したのは、昭和恐慌前後の村財政を知ることができるからである。
歳入面では、石戸村の場合、第一次世界大戦後に全体の規模が増大したが、昭和恐慌期には縮小した。一方村税収入の比率は、大正初期の七〇%台から大正末には六〇%台に急減し、交付金、県税補助金、国庫下渡金などの税外収入の比重が高まってきた。中丸村の場合は、大正四年度が隔離病舎費のため県税補助金の比率が高いのを始めとして、石戸村より村税収入の比率が低く、税外収入の比重も高く繰越金も多かった。
ところで、町村税の徴収については、当初は町村の自由であったが、先述したように、明治十七年以来、公的保護が与えられ、同二十二年の町村制で整備され、町村税として賦課しうる税は「国税府県税ノ付加税」と「直接又ハ間接ノ特別税」とされ、町村の税収入は基本的に独立税(特別税)ではなく付加税第一主義がとられていた。特に府県税は戸数割で統一的基準がなく、負担の公平を欠くことが多かったが、大正十年(一九二一)に府県税戸数割規則を定めて、府県税は市町村単位に配賦し、各町村が各納税義務者に対して資力に応じて賦課額を決める方法がとられた。しかし、大正デモクラシー運動の高揚によって行われた大正十五年の税制整理で、戸数割賦課は府県税から市町村税へ移行され、特別税として創設されてから以後は市町村税の中心となった。
歳出面では、石戸・中丸両村とも大正初期は役場費・会場費の一般行政費が総額の約三〇%、小学校費(教育費)が四〇〜六〇%と、歳出のほとんどがこの両者で占められており、土木費、衛生費など公共費の占める割合が極めて少なく、公共行政の展開が制約されていた。村行政において公共行政のための財政がある程度経常されるのは大正末期からで、特に土木費は、昭和恐慌期になって公共事業的性格をもって増額されるようになった。

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