北本市史 資料編 近代

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第1章 政治・行政

第1節 近代行政のはじまり

1 維新激動期
北本の近代は、戊辰戦争で江戸をめざして進撃する官軍の中山道の通行により、その幕を明けた。官軍の通行を契機とし県内諸地域で農民騒擾が頻発したが、市域には打ちこわしなどの不穏な形勢はみられなかった。東山道鎮撫総督岩倉具定・副総督同具栄麾下の本隊が鴻巣宿から市域を通過して桶川宿に至ったのは、慶応四年(一八六八)三月十一日のことであった。資料1は、官軍通行による鴻巣宿からの伝馬役の呼びだし、資料2は、治安維持の通達である。中山道筋が官軍の支配下に入ると、資料4のように、官軍の兵糧米・御用金の上納も命じられた。東山道軍は板橋宿に駐屯し、関東地方の鎮撫にあたったが、資料5は、忍への進軍に際し、荒川の戸田渡の加助船を課したもので、石戸宿・荒井村・高尾村の村役人宛通達である。資料6は、旧幕府軍兵の取り押え協力方を命じたものである。
明治政府は、慶応四年、政治の基本方針を示した「五箇条の誓文」の発布に引き続き、旧幕府の高札を撤去して五枚の太政官高札を掲示した。これがいわゆる「五榜の掲示」で、民政の方針を示したものであり、資料3には、その第一札を収録した。第二札・第三札とともに旧幕府の方針をそのまま継承している。
江戸時代、天領・旗本領であった市域の諸村は、慶応 一四年六月十九日、武蔵知県事の支配となつた。資料8は、酒造・醤油・濁酒の諸営業者に対し、鑑札下附につき上納金を命じたものである。地租改正以前の年貢徴収には検見法が行われた。資料9は、知県事山田一太夫が各組合村宛、出役が検見のため近々廻村する旨を伝え、また朝廷に帰順した旗本でも本領安堵の通達がなければ知行地は収公となること、出役が休泊の際は、ありあわせで一汁一菜とすること、旅宿はなるべく 一軒とするよう通達したものである。資料7 ・10は、荒井村の年貢上納を示すもので、7は、10の請取手形であり、明治元年(一八六八)の年貢が六月・九月・翌二年一月の三回に分納されたことが分かる。10は、右を完納した際交付された皆済目録であり、その形状・内容ともに江戸時代のまま踏襲されている。
明治二年一月二十八日、市域は大宮県に属した。県では早速、村役人の改選を命じた。資料11は、県から名主を入札により選出するよう通達されたことに対し、本宿村は小前百姓ばかりで入札しにくいので三名で順に年番で勤めたいと願い出たものである。
明治二年九月二十五日、大宮県は、浦和県と改称した(資料12)。県庁は翌年一月、浦和宿に開庁したC浦和県では、行政上、三〜四〇か村をもって組合をつくらせ、その中心の村を親村あるいは寄場と称し、その名主を大惣代とし、その下に少数の小惣代を置き、組合内の諸名主を集めて諸事を処理した。しかし種々の弊害があったため、同三年四月、寄場の名称を廃止し、適当な場所に大小惣代や村役人が参集できる御用会所を設置させた。資料13は、右の御用会所設立に関するものである。市域では、鴻巣組合と桶川組合の御用会所にかかわりがあった。明治四年二月、種々の弊害をおこす大小惣代は廃止となった。

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