北本市史 資料編 近代

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第1章 政治・行政

第3節 大正期の村政

1 村政の実態と選挙
日露戦争後の農村は戦争負担に加え、水害が加わって、県税、町村税滞納などの荒廃による深刻化が進んだ。これに対して政府は、明治四十一年(一九〇八)戊申詔書を発布し、国民教化の地方改良運動を全国的に推進した。自発的な愛村心の振起と町村自治振興をはかろうとするもので、この運動を各町村で担当したのが、青年会や勤倹貯蓄組合、滞納組合などであった。さらに政府は、模範村を設定し、この運動に資そうとした。同四十四年頃には地方改良講習会が開かれて、町村改善が研究されはじめた。やがて第一次世界大戦後には、奢侈な生活に陥った国民に自覚を促す社会教化運動である民力涵養運動を展開し、昭和初期まで町村あげての活発な運動が展開された。
まず、地方改良運動では、町村自治は、町村財政の確立にあると考えられ、国や県の指導のもとに積極的に町村基本財産蓄積が進められた。資料53は北足立郡内の模範村たる石戸村の大正二年(一九一三)度の予算額である。歳出の第十款で基本財産費が設定されているが、毎年五〇〇円以上を積み立て、学校校舎建設等に利用した。その後各町村では、通常の基本財産の他に、小学校基本財産、罹災救助資金、救恤金などのように目的別の蓄積を行っていった。また、町村財政確立のために石戸村では、大正二年三月会計規定を設定し、経費の節約を図った(資料54)。なお、予算については、第六節で村政要覧からの抄録を収録した。
村の行政に関する全般的な内容は事務報告に詳しいが、大正初期の村政については、県が行った資料55の「石戸村公益事業自治功労者吉田時三郎事績調」に詳しい。吉田時三郎は、明治三十四年十二月より名誉職(無給)の石戸村村長に就任してから、地方改良運動や民力涵養運動の指導者として、また、石戸村農会の中心人物として、勧業推進にもつとめ(資料57)石戸村を県下の模範村として、実況視察を受けるまでに発展させた功績は大きい。
この時期はまた、「大正デモクラシー」の言葉に代表されるように参政権の拡大もはかられ、昭和三年(一九二八)には、第一回普通選挙も実施された。明治二十三年五月郡制が公布され、埼玉県では同二十九年八月一日に施行されると、郡は府県と市町村の中間に位置する自治団体となり、新たに議決機関として郡会が設けられた。郡会は郡内町村会選出議員(定数二〇名)と大地主議員(定数六名、地価総額一万円以上)から組織され、議員は名誉職の任期六年で三年ごとに半数改選とされた。同三十二年七月に郡制が改正されると、郡会議員の選出方法は郡公民の直接選挙となり、大地主議員は廃止され、任期も四年となり、大正十二年郡制が廃止されるまで設定されていた。資料56は、大正四年十月に実施された北足立郡会議員の改選選挙区及び議員定数であるが、石戸村は川田谷村と二村で一人、中丸村も馬室村・常光村と三か村で一人の定数であり、北足立郡一三町五三か村で三〇名の定数であった。なお、普通選挙制は、昭和三年一月にまず県会選挙で、ついで同年二月の衆議院議員選挙において実施されたが、選挙運動も大きく変化した。大正十三年の県会議員選挙で日本一の違反者を出した埼玉県は選挙取締り、とくに買収に対して一層取締りの強化を実施したのである

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