北本市史 資料編 近代

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第2章 産業・経済

第2節 近代産業の発展

2 蚕業の改良発展
開国によって県内からも、蚕種(蚕卵紙)・生糸・緑茶などが横浜を経由して、さかんに輸出され、養蚕もこれにともなって発展した。しかし、明治初年にはまだ桑園が少なく、畑や畦畔などの桑で養蚕が行われていたが、廃藩置県後に県も養蚕を奨励すると、桑園面積も増加し、明治六年の熊谷県の蚕種生産高は二八万枚に達し、全国有数の産地となった。
また児玉郡新宿村(現神川町)の木村九蔵によって、温暖育法が発表されそれが好成績を収めると、明治十年この方法を普及するために養蚕改良競進組が組織され、県内各地に伝習所を開設して技術講習が実施されるようになった。伝習所は、大正初年には県内三一か所にも及んだ。南埼玉・北足立両郡では、明治二十年頃から児玉郡の競進社(明治十九年改称)や、信州・上州からの巡回教師の指導を受けて養蚕業を始めた村が多かったが、中丸村でも明治四十五年四月に蚕業技手が講師として招かれ蚕業講習所が開設され(資料125)て、技術講習が実施されている。やがて、大正十二年五月には蚕業の改良発達を図る目的で中丸養蚕組合が中丸村役場内に設置され(資料126)、主要産業として定着していった。
一方、石戸村も同様に養蚕の普及向上が図られ、昭和七年六月には、東京の高等蚕糸学校が石戸村産の春繭二〇〇〇貫を実習用として購入する (資料127)など技術改良に努め、品質向上の成果が高く評価されるまでになった。

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