北本市史 資料編 近代

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第2章 産業・経済

第1節 近代初期の農業と水利

2 耕地整理の展開
農業生産の増産は、明治初年の政府の水利管理対策以来、技術改善等さまざまな取組みによる発展によってなしとげられてきたが、抜本的には農地そのものの改善をはかることが必要であった。そのため政府は、明治三十二年に耕地整理法を発布し、区画整理事業を推進した。埼玉県では明治三十四年耕地整理費補助規則を定め、さらに耕地整理実施を奨励するため基本調査施行規則も定めた。これに基づき、県内では、北埼玉郡大田村や口絵写真にみられる北足立郡鴻巣町・常光村で耕地整理事業が開始された。以来、大正末期までの耕地整理の実施状況は全国的にみても高い率を示し、特に南・北埼玉郡において事業は活発であった。しかし、区画整理に伴う庄排水路設置をめぐり町村内で利害の対立を生じる場合が多く、しばしば計画の変更が申請されたりした。
北本市域では、東部の台地縁辺部が元荒川水系の水田地帯を形成しており、第五回内国博覽会ではその方式を出品し、一等賞を受賞した北足立郡鴻巣町常光村連合耕地整理組合に中丸村が属して、県下でも初期に耕地整理が実施され、農業生産力の向上のための改良が取り組まれている。この地域は鴻巣町内の宮地堰で元荒川から取水する谷田用水が一町七か村の一万一二九石の耕地を潤しているが、明治三十一年度宮地堰ニ係ル費用精算及割賦表(資料95)によれば、耕地整理事業に先立つものとして、宮地堰の改良工事が実施され、そのための予算として三九円七四銭が計上された。中丸村は総面積三八〇町三反六畝一九歩、土地所有者四五二人、うち同意者は三八四人で、反対者が多かった。宮地堰改良工事費賦課法についての稟申には、費用を村高割当することに対して、灌水田に要する費用を畑山林にも賦課するのは不公平であるとの異議が具申されている。同様の意見は、資料99の宮地堰工事規約書の中にも見え、費用負担が旧草高割をもって出金するよう決定されているが、灌水地と畑宅地とは用水の恩恵に違いがあるということで住民から意見書が出された。そのため宮地堰の改築は、宮地堰改良工事決定書(資料96)にあるように、明治三十三年十月になってようやく、関係組合町村中の用悪水共に支障のある部分を変更して同二十四年の設計で行うことで決定した。この工事の総予算額は、資料98に示されているように合計七二八一円九七銭五厘で、是の補助も三〇九九円二ー銭七厘と全体の四二パーセントに及んでおり、この堰の改良が、鴻巣町常光村連合耕地整理事業の一環で実施されていたことが、次の谷田用水の水路変更の陳情書(資料97)によって明らかである。
一方、石戸村では、やや遅れて明治四十一年三月に耕地整理創業総会が開かれ(資料100)、同四十三年五月に二年二か月と一反歩四円一〇銭の費用を費して完了した(資料101)。

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