北本市史 資料編 近代

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第2章 産業・経済

第2節 近代産業の発展

5 石戸トマト
石戸村のトマト栽培は、県農事試験場が農家の有利な事業として石戸村の農家を勧誘し、大正十五年に試験的に七町歩ほど栽培して始まった。当時トマトの種子はアメリカへ輸出されて好評を博していたので、当初は種子をとることを目的としていたが、翌昭和二年になると石戸村農友会長田島忠夫らの奔走により、石戸村をはじめ馬室・中丸・川田谷・上平村・桶川町の一町五か村連合で「有限責任石戸トマトクリーム製造販売組合」を組織し、より有利な事業としてトマトの加工製造とその副産物の種子のアメリカへの輸出が計画されるに至った(資料144)。その結果、早くも昭和三年一月に東京三越呉服店で開催された全国名産食料品陳列会で、埼玉県名産として熊谷の五家宝、川越の芋煎餅とともに石戸村のトマトクリームとトマトピクルスが出品され好評を得ている。最初の一年でトマトクリ—ム十万函、ピクルス三万個が生産され、石戸村では農家振興のために農林省及び県の助成による農家の副菜化がめざされた。
このトマトクリームは、トマトソースとは同質であるが、低温乾溜法によって製造され、トマトソースの三倍の濃度を有し、生のトマトの滋養分をもつもので、農林省技師であった草野計起により考案され普及したものである。特に昭和三年の済南事変の際軍人食糧として陸軍省の調達を受けると、中国、南洋、遠くヨー ロッパにまで見本を送り販路拡大を計画し、県も宮脇知事が視察するなど本格的に奨励する方針をとった(資料146)。その結果、同年十一月の関東各府県連合副業共進会で石戸卜マト組合が一等賞に入賞、また翌四年二月には静岡市で開かれた全国加工食料品展覧会に出品すると即日売切の盛況をみせた。翌五年五月に東京白木屋で開かれた東京日日新聞社主催の国産愛用家庭生活展覧会にも出品、外市場価格はトマトピックル一瓶五銭、トマトケチャップ四五銭、トマトクリーム四〇銭であった(資料148)。
石戸トマトクリ—ム販売組合の昭和三年度事業報告(資料147)によれば、栽培人員は四一〇人で八町五反歩が栽培され、六万五〇〇〇貫匁のトマトを産し、トマトクリIム一三〇〇箱、トマトビクルス四〇〇貫を生産し、「トマトのイシト」の名は初夏を告げる味覚の代表として全国に知れ渡っていった(資料148)。

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