北本市史 資料編 近代

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第3章 北本の教育

第2節 近代教育の発展

1 義務教育の充実
明治十九年(一八八六)に発布された「学校令」以後の時期は、日本が近代国家としての体裁を整える時期でもある。即ち、国内的には、大日本帝国憲法が発布され、市制町村制、府県制郡制などの地方制度が整えられた。対外的には、明治二十七年に日清戦争、同三十七年に日露戦争が勃発し、いやがうえにも国家主義的体制を政治・経済・社会・教育面において整えることになる。そのため、政府は、富国強兵・殖産興業の掛け声のもと、各校へ勅語謄本や御真影を下賜し、教育を国家主義体制の中に組み入れていった。
明治十九年、小学校令が制定され、近代教育制度が整備されるようになる。しかし、この期に入っても、埼玉県の就学率は、全国平均より一〇パーセント程度低く、およそ四〇パーセントと、なお低迷状態が続いていた。その最大の理由は、授業料徴収を主とする受益者負担の原則にあった。
当時の授業料の徴収方法には、いくつかの方法があるが、市域の中丸村尋常小学校では、各家の貧富を基準として徴収額を設定し、石戸村立尋常小学校(資料179)や中丸村立尋常高等小学校では、各家の貧富の程度と学年による基準を組み合わせて徴収額を設定する方法(資料180)をとっていた。
また明治二十三年の小学校令では、尋常小学校に補習科が付設されることとされた。これは修業時間外に既習の学科を補習するものである。資料181は北足立郡内の補習科設置校の教授時間表であるが、これによれば市域では、石戸村内の高山・城山・石山の三校に補習科が置かれ、授業の行われていたことがわかる。なお補習科は、明治三十年代のはじめから減少し、四十一年の義務教育年限の延長とともに廃止された。
尋常小学校の就学率が飛曜的に上昇するのは、明治三十三年の小学校令の改正により授業料が廃止されてからである。その結果、市域においても児童数の増加がみられ校舎の新築が計画されたが、明治三十七年に日露戦争が勃発すると、「県費ノ負担ヲ軽減シ民力ヲシテ軍費ノ供給ニ堪へシムル」という県の方針をうけて、各種の町村費事業が中止されるが、本市域の石戸村でも、資料185にみられるように城山尋常小学校の校舎新築が「平和克復マデ」延期されることになった。
小学校令の改正では、尋常小学校に数教科を随意科目として加設することを可能とし、教育内容の充実がはかられた。その結果、資料182・183のように、中丸小学校では唱歌と裁縫、石戸村高山小学校では図画と唱歌の加設が認可され、また、資料184のように中丸尋常高等小学校では農業を加設し、この頃の産業教育の振興に資した。
明治四十年の小学校令改正により義務教育年限が六年になり、また、高等科二年が併設されるが、資料188はそれを示している。そして、この改正令を契機として、市域の石戸村では従来の高山・石山・城山の三校が統合され、石戸尋常高等小学校が設立され高等小学校教科の併置が認可された(資料187・188)。この結果、それまでの三校分立の不経済が解決され、さらに、資料189のように、明治二十二年から続いた、川田谷村と石戸村との組合立高等小学校は解除された。
これは、石戸村が六〇〇戸以上の戸数を有する大村で、独自で学校費支弁が可能になったのである。

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