北本市史 資料編 近代

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第3章 北本の教育

第3節 国民教育の強化

一 学校教育の充実と統制
大正期に入ると就学率も九〇パーセントを超え、教育が大衆化したといえるが、一方大正デモクラシーの影響を受けて、労働運動や社会運動がさかんになってくる。そのために、国民の思想善導が政府の課題となり公民教育が強化されていった。
このような中で、石戸村では、明治四十二年(一九〇九)に教育会が設立された(資料203)。これは、学校教職員が中心となり、青年補習、壮丁教育、教育品展覧会の開催等、教育の発達改良を図ることを目的とし、村内の学校教育の援助及び社会教育の振興をはかった。資料59は、その活動の一端を示すものである。
資料204は、大正二年(一九一三)の石戸小学校での運動会の様子である。運動会は、農閑期を利用しており、近隣の農村の小学生を呼んで参加させるなど、お互いに招待する形で行なわれた。資料209は、石戸小学校の水神祭の様子である。これは、荒川における水泳場開設に際しての儀式であるが、村の青年団員も参加しており、小学校を中心として、村全体が動いている様子がうかがえる。
明治四十年の小学校令の改正により義務教育の年限が四年から六年に延長され、さらに、尋常高等小学校の就学率の高まりによって、児童数が増加したため、大正期には、中丸・石戸両小学校において、校地の拡張や校舎の増改築が行われた。資料211は、昭和二年(一九二七)の石戸小学校における雨天体操場兼用講堂建築認可申請であるが、授業や儀式のみならず、村民の集会等にも利用されるべきものとされた。資料207は大正期の石戸村の戸数や村財政・学校費に関するもので、村と教育との関係を知ることができる。
教育の大衆化は、同時に、教育内容の研究を促進し、種々の授業方法が生みだされた。資料206は、このような中で、中丸村小学校が理科展覧会に入賞した様子を示している。また、資料208は、図書標本を購入するための基金を蓄積するための規程であり、大正期の学校教育の質的充実を示す一例である。
明治二十二年に発布された大日本帝国憲法には「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とあり、さらに、国民は天皇の「臣民」として位置づけられた。そのために天皇を奉戴するの最大栄誉と最大幸福を有せしめることを教育の根本とした。このような目的のもと、明治二十三年には、教育勅語が発布され、また、明治二十四年には「小学校祝日大祭日儀式規程」が公布され、祝祭日に、小学校で、御真影への拝礼・勅語捧読・校長訓示等が行われ、このような様々な儀式の中で、児童に忠君愛国の精神が涵養されていくのである。大正期においても、この国家主義の立場による教育は変わらず、資料205のような御真影拝戴の申請が行なわれた。資料にみられるように、御真影の守護方法は、当時の学校経営の最重要問題であった。大正天皇崩御の際には、青年団等、村民一同が哀悼の意を示しており当時の天皇制教育の一端がうかがえる(資料210)。

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