北本市史 資料編 近代

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第3章 北本の教育

第4節 戦時体制下の教育

昭和初期の経済的不況は、同六年(ー九三一)九月の柳条溝事件に始まる満州事変をひきおこし、国内では、十一年の二・二六事件によって、軍部の政治的発言力が強くなった。
さらに、同十二年には、日中戦争が勃発するが、これを契機に、国民精神総動員運動や同十三年の国家総動員法の公布が、国民生活のあらゆる面に統制を加えていった。
こうした社会情勢の緊迫化は教育界にも反映し、いわゆる「戦時下教育」の考え方が広くゆきわたるようになり、皇国民教育という立場から教育制度の統制・改編が行なわれた。
昭和十年四月、「青年学校令」が公布され、それまで、内容・性格等がかなり重複していた青年訓練所と実業補習学校(公民学校)が統合され、市域においても同年、石戸村・中丸村にそれぞれ青年学校が誕生した。
その教科内容は、修身及公民科・家事及裁縫科・体操科・普通学科・教練科・職業科からなり、特に、教練科が重視された。同年八月の「青年学校教練科等査閲令」によって、教練の査閲が行なわれるようになった。資料222は、教練の細かい内容を示すものである。
資料221は、石戸青年学校自治会による映写会の開催通知であるが、在郷軍人会の協力を得て、軍事思想の普及に努めた様子がわかる。
なお、昭和十八年に、石戸・中丸両村合併により石戸・中丸両青年学校が統合され、北本宿青年学校となり、太平洋戦争突入後、青年学校は、軍人養成機関としての性格を強くしていった(資料226)。
小学校においてもこの傾向は同様で、皇国民としての意識を児童に涵養するため、さまざまな機会をとらえて教育がなされた。なかでも、当時、各地で建設がすすめられた奉安殿は、その象徴的なものである。奉安殿とは天皇・皇后の御影や勅語謄本などを格納する建物であるが、市域の石戸村では、昭和九年に皇太子の誕生を記念し、石戸尋常高等小学校に建設された。中丸村は、昭和十六年に、中丸尋常高等小学校に建設されたが、資料224・225から、その形状を知ることができる。児童は、毎日の登校時や儀式の際、これに向かって最敬礼をしたのである。
資料223は、中丸尋常高等小学校少年団に関するものである。これは、単に、学校内だけでなく、学校内外で児童に対して皇国民としての基礎的錬成をしようとするものであり、規律的団体訓練としての集団登下校など、そのまま軍隊教育に通じる性格をもっていた。なお、尋常高等小学校は、昭和十六年三月の国民学校令により、国民学校となり、市域でも、石戸・中丸両国民学校が誕生した。
戦火の激しくなる昭和十八年以降には、中学生に対して勤労動員令が出され、市域でも荒川河川敷での食糧増産遂行のために、生徒がかり出された(資料227)。
戦争の長期化は、食料等、物資の不足をもたらし軍需物資の欠乏は、戦争遂行上の大きな問題となった。政府は、昭和十六年八月に資源特別回収に関する通達を出した。埼玉県でもこれを受けて金属類特別回収実施方策を県民に示し協力を求めた。そのため、寺院の梵鐘や仏具等、家庭内の金属性の物干、火鉢、喫煙用具等、日常使用する物なども供出を強制された。資料228はこの金属回収運動に関するもので、当時の日本が、学童服の金ボタンまでをも必要としていたことがわかる。
東京・大阪などの主要都市が米空軍機などの空襲をうけるようになったのは、昭和十七年四月からであるが、同十九年になって、その情況は、一層、激しくなった。そこで、政府は、同年六月より、国民学校児童の縁故疎開、集団疎開の促進を図った。
市域においても疎開学童の転入が急増するのは、昭和十九年七月頃からである。北足立郡や市域では疎開学童受入れ態勢がとられる中、同年八月、東京の久松国民学校の児童が、市域の多聞寺・寿命院に集団疎開をした(資料229・230・231)。資料232は、当時の回想であるが、親元をはなれてのつらい生活だったことが推測できる。

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