北本市史 資料編 近代

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第4章 社会生活と文化

第1節 社会生活

4 日露戰争
明治二十七~八年の日清戦争直後、日本はロシアを中心とするドイツ・フランスからいわゆる一ニ国干渉を受け清から割譲させた遼東半島をロシアへ返付せざるを得なかった。これに対し政府は「臥薪嘗胆」のスローガンをかかげて三国干渉の報復と遼東半島ならびに満州獲得をめざして軍備増強と臨戦体制の整備をすすめた。
一方ロシアは南下政策をとり満州の独占的支配をすすめて朝鮮国境に迫った。日本はこれに対しすでに日英同盟を結んで準備し、明治三十七年二月宣戦を布告し日露戦争に突入した。この開戦にあたり軍部は大規模な動員を行った。埼玉県では同三十七年二月の第一回動員召集から三十八年八月の第五回召集までにわたって二万二二五四名(うち海軍八名)が召集された。これらの将兵は第一・第二軍に属し、金州城・奉天会戦に参加した。開戦とともに政府は軍事資金調達のため多額の国債を発行し国内では四億八千万円を五回にわたって各市町村に割りあてた。しかし戦費のなかばにあたる八億円はアメリカ・イギリスによる外債で賄われた。又、帝国海軍協会の呼びかけで義勇艦隊建設資金の寄付募集がおこなわれた。また、陸軍恤兵部へ金品の献納を申し出る人が多かったが、その品目は金銭のほか慰問袋・真綿・懐炉・紙入チョッキ・手拭・梅干・漬物・草鞋などに及んだ。出征兵士の家族には扶助金が支給されたが、それをも寄付する人がいた(資料287)。屍山をきずいた旅順の攻防戦などを除いて国民は日本軍の連戦連勝の報道に熱狂した。各地で戦勝祝賀会や凱旋兵士歓迎会がおこなわれた(資料284・285・286)。
愛国婦人会は、明治三十三年の北清事変に際し、現地 で戦う日本軍将兵の慰問に訪れその辛苦を知った奥村五 百子の提唱により、翌三十四年に創立された。県下市町 村における愛国婦人会の結成は明治三十七年日露の開戦 を契機としたものであった。戦後、各市町村の戦争に対 する協力に対しては行賞が行われた(資料288)。

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