北本市史 資料編 近代

全般 >> 北本市史 >> 資料編 >> 近代

第4章 社会生活と文化

第1節 社会生活

5 衛 生
明治初期の衛生行政は、文部省の管轄であったが、明治八年内務省に移され「府県二衛生事務担当ノ吏員ヲ置ク」とされた。同十一年五月内務省は、各府県に対し「衛生事務取扱之儀自今担当吏員ヲ選定セシムへキ」旨を通達した。このように明治十年ごろまでは国にも伝染病予防に関するこれといった法規もなく、従って予防施設も少なかった。伝染病予防が叫ばれるようになったのは明治に入ってコレラが大流行(明治十年、十二年、十九年、二十八年)したこと、同七年天然痘が全国的に大流行したことがきっかけとなった(資料289)。本県では明治九年十二月に種痘普及規則を定め、積極的に獎励した。これら伝染病の大流行を期に伝染病予防・衛生一般のことが各地で考えられるようになった。同十一一年には県に地方衛生会、同十七年には連合町村部内に衛生会をおき、衛生委員を民選させて防疫等衛生事情改善策について審議させた。ついで明治十九年十二月には県令で町村衛生組合規則を発布し、各町村に衛生組合を結成させ、衛生事情の向上を期せしめた。明治末年県下各地で赤痢・腸チフスなどが頻発し、各町村で隔離病舎が建設された。また各町村の衛生組合では、伝染病に対する衛生思想の普及、種痘の奨励などをおこなった。昭和十二年(一九三七)には結核予防委員会もおかれた(資料292)。石戸村は無医村であったが昭和八年から済生会の巡回診療が開始された。しかしそれも週一回の不充分なものであったので、住民から診療所設置がつよく望まれた(資料293)。

<< 前のページに戻る