北本市史 資料編 近代

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第4章 社会生活と文化

第2節 文化

 1 神社と天理教
明治政府は祭政一致の方針に基づき神道国教化政策を推進した。口絵写真は、慶応四年(一八六八)三月十七日の神仏分離令をうけて、須賀神社別当恵正の復飾願で、以後の神勤と神葬祭を合わせ出願したものである。明治四十年代の神社の整理統合事業は神社としての体裁の整わない貧弱な神社の社殿・社地を廃止し、合併をはかり祭神を合祀するという国家神道史上きわめて重要な事件であった。この整理は明治三十九年(ー九〇六)四月の勅令九六号、八月のニニ〇号でとりきめられた。すなわち「神社寺院仏堂の合併に因り不用に帰したる境内官有地は官有財産管理必要のものを神社寺院仏堂に譲与することを得」となった。これに基づき、同月十四日神社・宗教両局長通牒をもって神社寺院仏堂の合併が奨励された。整理の意図は神社の合祀により一社当たりの経済的基礎を確立することによって祭祀を厳重におこなわせようとすることにあった。すなわち、奉祀に欠けて規模が備わらず、体面の備わらない神社の合併を奨励したのである。市域でもこの時期全域にわたって合祀がすすめられた(資料302 303 304 306)。
天理教は幕末維新期に成立した代表的な民衆宗教の一つである。 教祖中山みき(一七八一~一八八七)は大和国山辺郡庄屋敷村(現在奈良県天理市)の商人化した地主の妻であったが、夫が家業を顧みないため、農業・家事・出産・育児に心身を労し、家庭的苦悩から救いを念仏に求めていた。四十一歳のとき長男が足痛を病み医薬もきかなかったので祈禱師を招いたところ、みき自身霊感を蒙り、一切の執着心を去って奉仕の生活にいそしむことこそ天理に順応するものと大悟するに至った。明治十八年神道本局に属し、同二十一年神道直轄天理教として公認され、ついで同四十一年教派神道として公認され天理教会本部として独立した。埼玉県では明治二十五年四月南埼玉郡八条村の立野堀教会、同年九月の秩父教会の二教会がもっとも早く、以後各地に教会、布教所が開設されていった(資料305)。

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