北本市史 資料編 近代

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第4章 社会生活と文化

第2節 文化

3 算額・剣術家
ア 算 額
江戸時代に発達した日本独自の数学を和算というが、その代表的な学者の一人が関孝和である。関孝和についてはその生年も出生地も不明であるが、実父は上野国藤岡の出身である。関は甲斐徳川綱重・綱豊(のちの六代将軍家宣)父子に仕え、綱豊が五代将軍の世子として江戸城西の丸に入ったとき西の丸御納戸組頭をつとめた。
当時の日本では中国の元の朱世傑が正安元年(一ニ九九)に公刊した『算額啓蒙』や、明の程大位が文禄元年(一五九二)に著わした『算法統宗』などの数学書が研究されていた。これらでは算木を用いて方程式を解く用器代数ともいうべき解法がおこなわれていたが、関は延宝二年(一六七四)『発徴算法』でこれらの書物に基づく筆算による代数を創始した。この業績により和算は大いに進歩をとげた。関の他の業績としては方程式の研究がある。これは方程式の正負の根とその存在条件を論じたものである。また高次方程式の近似解を求めるためニュートンの近似解法およびホーナーの方法を完全に与えている。更に高次の連立方程式から一つの変数を消去するため行列式の方程式を発見した。これは天和元年(一六八三)の『解伏題文法』に述べられており、ヨーロッパにおける研究に先だっていた。関はさらに円理の理論を樹立している。これは関の死後公刊された『括要算法』(一七〇九年)で述べられており、「求円周率術」「求弧矢弦術」「求立玉積率術」などが示され、円周や弧の長さを求める方法とされ、さらに正多角形の一辺の長さ、外接円の半径、内接円の半径の研究がなされている。資料313はこれらの解法を示した算額である。「算額」はこれらの和算の問題を解く前に神社に参詣し成功を祈願した人々が解決に成功した時、その成果を額として神社に奉納したものである。明治期においても出版の便宜がなかった地方において、この方法がおこなわれていた。
イ 剣術家
神道無念流の創始者福井兵右衛門は、元禄十五年(一七〇二)下野国都賀郡藤葉村(栃木県下都賀郡壬生町)に生まれ、幼名を川上善太夫と称し、一円流を牧野円泰に学んだ。その後武者修行に出立、信濃国戸隠山飯綱大権現に参籠して剣の奥義を極め、一派を立て神道無念流を創始したといわれる。当時の関東剣術界は、上野の馬庭念流が全盛を誇り、江戸では中西派一刀流の中西忠蔵子武と直心影流の長沼四郎左衛門国郷によって防具が考案され、剣術の練習法も大きく変革された。県内でも川越藩の鐘捲流・忍藩の浅山一伝流・岩槻の直心影流・岡部藩の無限流と各藩独自の流派がとりあげられていた。このように武士階級が既成の流派をとりあげていたー方、土地の集積によって富農化した地方有力農民の中にの自衛手段として剣術を練習しようという気運が高まり、一般大衆を対象とする新興流派の誕生が期待されるようになった。この時代に戸賀崎家剣一世熊太郎暉芳が生まれた。暉芳は延享元年(一七四四)埼玉郡上清久村に生まれ、江戸四谷の神道無念流の祖福井兵右衛門の道場に入門し、宝暦十三年(一七六三)正月二十一歳で免許皆伝を許され、同流をつぎ宗家となった。その後郷里の上清久にかえり邸内に道場を開き近隣の子弟の指導にあたった。三代戸賀崎熊太郎芳栄は戸賀崎家剣五代中最高の傑物であったといわれ、水戸藩主烈公徳川斉昭に乞われて水戸弘道館の師範に補せられた。四代目戸賀崎熊太郎芳武に師事したのが、深井勘助である。深井景周は三河国宝飯郡長草村の人で鴻巣宿の深井氏を嗣いで江戸で加藤長寧に起倒流を学び、かたわら陣鎌・神道夢想流を学び、また伝外術十二手を工夫したといわれる。深井景邦の父成富は深井無敵斎景周の孫である(資料314)。
柳剛流の創始者である岡田惣右衛門奇良は、明和二年(一七六五)三月、葛飾郡惣新田村字九郎兵衛新田(現幸手市惣新田)で生まれた。岡田ははじめ伊庭軍兵衛直安の高弟であった大河原右膳有曲に師事し心形刀流を学んで免許を得たのち諸国で修業し、「臑を斬る」という奇妙な実戦的刀法として知られる柳剛流を創始した。諸流派では、最高位の「皆伝」の印可を受けるまで七、八の段階を経る必要があったから年齢的には五十歳をすぎた。これに対し柳剛流では三段階で「免許」の印可を受けられおおむね三十歳代の体力・気力ともに充実しているときで、関東では武蔵をはじめ上総・下総・上野・下野・常陸などの諸国に道場を設けて多くの門弟を育成するようになった。万延元年(一八六〇)に刊行された『武術英名録』では、現在の市町村別にみれば武蔵国一四九名のうち幸手町二七人、草加市一一人、岩槻七人、吉川町六人、庄和町五人という順になっている。また明治二十一年三月出版された『皇国武術英名録』では埼玉県のうち入間一人、比企一人、大里一人、南埼玉九人、北足立一一三人、北葛飾五〇人と県内では北足立郡と北葛飾郡に集中していた(資料315・316)。
また小野派一刀流の高野佐三郎豊正は、明治・大正・昭和の三代にわたって埼玉県のみならず日本の剣道界に大きな業績を残した。高野は秩父郡大宮郷(現大宮市)の秩父神社境内にあった高野家に文久二年(一八六二)六月に生まれた。幼少の頃から小野派一刀流を学んだ高野は十八歳の時東京四谷で道場を開いていた山岡鉄舟の門に入り技術をみがいた。明治十九年には「警視庁元町警察署世話係」を拝命し、署員に剣術の稽古をつけた。その後浦和高砂町に浦和明信館を建てて家族と移り住み、明治二十二年には埼玉県巡査となり、巡査教習所で指導するかたわら、明信館に来る埼玉師範学校の生徒や浦和の青年たちを熱心に指導した。埼玉県の警察における撃剣の本格的稽古はこの時以来といわれる。明治三十三年には大日本武徳会埼玉支部開設委員として奔走する一方、明治も四十年代に入ると大学・高等専門学校における剣道がにわかに活気を带び、明治四十一年には東京高等師範学校撃剣科講師、更に同年東京高等工業学校剣道師範を、そして明治四十三年には早稲田大学剣道部講師を依嘱された。東京高師と早稲田とは終生関係が持ちつづけられた。こうした中で明治四十四年には「中学令施行規則改正」が公布され、剣道・柔道を正科として体操の一部に採用することが決定された。高野は大正五年には東京高師の教授となり以来昭和十一年七十五歳で退任し、昭和二十五年八十九歳で生涯をとじるまで、学生の指導と学校剣道の発達、さらには埼玉県のみならず日本の剣道の発展に大きな足跡を残した。
このようにして警察署の撃剣識習会のほかその支所が各地におかれ剣道は広く普及するようになった。更に明治四十四年には埼玉武徳殿が県庁裏に完成して県下武道振興の中核的存在となり、段級試験などがおこなわれ剣道普及に大きな役割を果した。埼玉県体育史には「大正二、三年度は埼師運動部の黄金時代」とあり剣道・柔道に多くの学生の名がのっている。これらの人々が卒業後県内各地の小学校に勤務しつつ青少年の練成にあたった。さらに県内各郡下の町村教育会や警察署の肝煎りで、郡下各村で小学生や青年団員らに巡回指導をおこない、又各種の大会が催されすぐれた剣士が輩出した(資料318・319)。

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