北本市史 資料編 近代

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第4章 社会生活と文化

第3節 解脱会

第3節 解脱会
 解脱会は北本市に生まれた岡野聖憲(俗名英蔵)(一八八一〜ー九四八)が開教した新宗教である。教祖は三十歳頃まで北本宿あるいは鴻巣で綿布販売業等に従事し、以後東京に出て海運業界に入り成功を収めた。大正時代の末期、様々な体験を通して宗教的な開眼をした教祖は、昭和四年(一九二九)、四十九歳にして解脱会を開教した。しかしこの時代は新しい宗教教団の設立が困難な状況にあったため、同会は真言宗醍醐派に所属し、醍醐派の解脱分教会という形で活動を続けた。
 会員の会合の場所は東京市四谷区荒木町にあった教祖の自宅ならびに各支部の支部長の家が充てられていた。しかし、会員の増加に伴い分教会の形を整える必要に迫られ、解脱会の御霊地が北本宿にあった関係から、昭和八年十二月十五日に埼玉県知事宛に分教会所設立申請書を提出し、翌九年一月八日に認可され、ここに解脱会は北本宿に組織的活動基盤をもっことになつた。本節では、解脱会の協力により提供された若干の資料のうち、北本に関わるものを紹介し、同会の理解に資することにした。
 北本宿における解脱会の最初の道場は、昭和九年一月の認可をうけて同年二月八日に「真言宗醍醐派醍醐教会解脱分教会所」として設置届出がなされ(資料321)、当初は建坪八坪ほどの家屋であったという。その後会員数の増加と共に本格的な道場が必要となり、昭和十一年に建坪五七坪の「感謝会館」と呼ばれた修業道場が中丸村北本宿字上原五四四ノ五に建設された。昭和十九年にはそれまで東京に住まっていた教祖がこの道場に移ってからは、以後各地の会員は指導を受ける際に、北本宿を訪ねることとなった。このため諸行事も専ら北本宿で行なわれることとなり、この状態は昭和二十三年に教祖が死去するまで続いた。現在この修業道場は解脱会御霊地の宝物館の脇に移築され「解脱金剛記念館」と呼ばれている。
 教祖の在世中、解脱会は真言宗醍醐派に所属していたが、その教義ならびに活動は開教当初より独自な内容を持っていた。その特色は、資料322の「解脱の教五法則」に代表され、それは様々な形で展開された教義の内容を観念的に理解するのではなく、実生活の中での実践を通して実際に体験してゆくことを最も強調していた点に特色がある。そのため教祖は独自の様々な実践活動に力を注いだ。昭和十二年頃から始まった国に対する奉献金活動や、戦地の兵士に対する様々な慰問活動、中でも特に郷土のために尽す活動を展開した。資料325・326などに見られる中丸村への様々な寄付は、こうした活動の具体的な例である。
 郷土・社会・国のために奉仕してゆく実践活動を指導してゆく際に、教祖が特に強調したのは゛足元からの学び ゛即ち郷土と深く関わって生き、郷土のために尽してゆくことであった。教祖は先ず自らが先頭に立ってそれを実行し、それゆえ北本と解脱会とは深い関わりをもってきたのである。
 その始まりは、開教後問もなく、教祖が解脱会の聖地ともいうべき御霊地を現在の北本市緑一丁目を中心とする一帯に定めてからであり、年を追って御霊地を参拝する解脱会員の数は増えてきた。昭和六年に始まる御霊地を中心に行なわれた解脱会の大祭では、北本に集う解脱会員を迎えて多数の地元の人々が準備や接待等の奉仕を行なっている(資料320・323・324)。これによって大祭は地元民と解脱会員の交流の場ともなった。
 大祭は回を重ねるにつれて参加人数が増え、北本宿駅には十本以上の臨時列車が発着し、万余の会員が各地から訪れるようになり、北本は大きな賑わいをみせた。さらに、教祖が昭和十九年に北本に転居すると、大祭の当日以外にも連日のように全国各地から多数の解脱会員が北本を訪れてきた。こうして北本と解脱会はより深い関わりをもつに至ったのである。
 前述のように、教祖は郷土のために尽す自らの実践として、数回にわたる中丸村出征家族の慰問、中丸小学校への国旗や教育費の寄付、中丸村道改修工事費や北本宿駅新設記念碑建立費の寄付等を行なっていた。ここでは昭和十四年六月の中丸村村道改修鋪装工事費の寄付と、同十六年十一月の中丸国民学校教育費寄付の資料を掲げた(資料325・326)。各地の解脱会員もこの中丸村と教祖との関わりを範として、それぞれに自分の郷土のために尽す活動を展開していったという。
 なお、戦後の解脱会の動向については、現代の第六章第六節「宗教界の改革と解脱会」を参照されたい。

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