北本市史 民俗編 民俗編一覧

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第1章 生活の場と民俗概観

第5節 北本市域の民族の特徴

前節までに述べた北本市の自然環境や歴史によって、北本市域の民俗は性格づけられてくる。
まず、大半を占める台地部とそれを開析する谷、東西を流れる荒川・赤堀川流域の低地という地理的条件がある。明治八年段階では、耕地の八六.六%が畑地で、水田は一三.四%に過ぎない。従って農業は畑作中心となる。
台地中央部の畑はアカドロ (赤泥)と呼ばれる関東ローム層の畑で、土が軽く小麦しか作れず、野菜や大豆作には不向きだった。しかし、サツマイモは味のよいのが取れた。その東西は窪地の黒ずんで重いクロマサで、大麦や野菜・大豆を作付けするのに適していた。オカボ(陸稲)も作った。里芋は湿気のある畑に向くので、荒川沿岸の低湿地に作った。
広い山林は薪作りやクズカキ(落ち葉かき)の場として重要だった。クズは枯れ枝とともに燃料として使い、またサツマ床に入れ、堆肥にして麦の肥料に使うが、一月が山搔きの時期で多忙なので、正月は月遅れで二月にしていた。山を開墾する山起こしも盛んで、薪の代金は山主のもの、切り株は起こした小作人のものとなるなどの慣習もあった。
荒川よりの市内西部地区では、ドロツケと呼ばれる客土農法が行われた。冬の農閑期に荒川の河川敷からヤドロと呼ぶ肥沃な土を運んで畑に入れる土地改良法で、桶川市から鴻巣市にかけての荒川沿岸で盛行した農法である。
麦作中心の農業から、普段の食事も晴の食物も、麦が中心となる。ことに収穫期の夏には、七月一日の浅間様の祭りをはじめ、新小麦の饅頭やうどんを供物とし、行事食とする機会が多い。
また、関東地方を北限とする里芋も儀礼食としての位置を占め、正月や盆・十五夜、十日夜などに供え食べている。一方で正月に餅を食べない家例の家もみられた。
水田が少なかったので、オカボ(陸稲)も大事だった。大麦のサクの間にサクイレして播いたが、オカボは旱魃に弱く、板倉(群馬県)の雷電様に行って水を貰ってくる雨乞いなども行われていた。
サツマイモも養蚕と並ぶ現金収入源で、芋苗を売る家もあった。芋床にも山の落ち葉が不可欠だった。
北本市内で古くから用水場だったのは、赤堀川沿岸の一部だけで、他は台地の絞れ水を利用する湿田が大部分を占め、渡り木を伝って歩き、カンジキ(田下駄)を履いて稲刈りをし、ソリ(田舟)で稲を運んだ。これらの湿田では、ツミタ(摘み田)とかマキタ(播き田)と呼ばれる直播法が普通で、田植えはしなかった。現在のように水田が増えたのは、昭和初期の河川改修で河川敷が水田になったり、戦後、畑に深井戸を掘ってポンプで揚水する陸田化が行われてからである。
湿田では、種籾を灰と下肥でくるんで播くので、灰が大切である。農家では、ヘエゴヤ(灰小屋)を外便所の脇に作って溜めておいたが、岩槻の灰問屋から灰を買ったり、水田地帯の農家との間で薪を交換したりする特殊な公益が行われていた。
住居では、関東地方に多い田の字型四間取りが多いが、母屋の左手を後ろに張り出した部屋角(つの)や、土間部分を前に張り出した馬屋角を持つ曲がり屋形式の家も見られた。埼玉のツノヤ(角屋)は南北埼玉郡・北葛飾郡・北足立郡に密に分布する住居形式で、古利根川・元荒川・荒川などの河川流域で、自然堤防上の狭い土地を活用するために生まれたものではないかと考えられる。北本市域では早期に上囲炉裏が消滅していることとあわせて、検討すべき課題である。
市内には、高尾や宮内・深井など氷川神社を村社とする地域が多い。大宮市の武蔵一の宮を本社とする氷川神社は、おおむね元荒川を東限とし、多摩川を西限とする大宮台地や武蔵野台地上に分布している。祭神は須佐之男命・稲田姫命・大己貴命の三神でいずれも出雲系の神々であり、これは古く武蔵の国を出雲系の首長が領し、その奉ずる祖神を祭ったためといわれている。
個人の屋敷神は稲荷が圧倒的に多く、初午を祭日としている。江戸時代のある時期に、江戸文化の一環として伝播してきたものであろう。一方、初午の日の供物として欠くことの出来ない大根の湯なますスミツカリは、栃木から群馬、埼玉の利根川流域に分布しているものである。
北本市内には多くの堂庵がある。宮内の観音堂で行われている豆いり真言や、山中の不動堂で行われている百万遍の行事は、民間の仏教行事として貴重なものである。荒井の千手堂は味噌観音と呼ばれ、味噌の味が変わらないように御参りしたという。味噌がかつて晴の食物であり、味噌の味が変わることが、不吉な予兆として忌まれたころを思わせる伝承である。名があり、信仰を伴っているもののほか、墓に付属したお堂があって、お堂といえばお墓をさすほど、墓とお堂は結び付いている。仏教の伝搬に関して、お堂と墓地墓石がどういう位置を占めるか今後の課題としたい。
常光別所は、無量寿院の飛び地である境内地の地蔵堂に死者を埋葬し、大堂の方に石塔を建てる両墓制を取っていた。無量寿院は格の高い寺だったので、隣接する大堂には死体は埋めず石塔だけを建てたといわれるが、なお検討を要する問題である。
北本市は埼玉県の中央部に位置しているためか、県の西部へ連なる民俗と、県東部へ連なる民俗の双方が見られる。西部系の民俗としては、六月一日の早朝麦糠を燃やして当たるオタキアゲ(お焚き上げ)がある。入間郡・比企郡を中心とした荒川西岸地方で行われている民俗で、北本は東限といってよい。
東部系の民俗としては、エビスコウ(恵比寿講)に生きた鮒を供えるカケブナの行事や、初午のスミツカリなどがある。盆に先祖を田畑に案内するノマワリの行事も県東部でよく見られるものである。 -
人口の急激な移入と都市化は、近年の北本を特徴づけるものといえよう。古くから市域に居住している人々によって保持されてきた民俗とは別に、新住民によって営まれる民俗もあるはずである。そういう視点を含めて第十二章をまとめたが、戦時中小笠原から東京都に移住させられていて、終戦直後北本に移住した十数世帯があり、新住民の民俗形成の姿を示している。軍需工場の同僚に北本出身の人がいて誘われたのが縁で北本に移住した人があり、さらに小笠原出身の人がいるからというので、次第に移住する人が増えたのだという。
本籍は、ほとんどの人が既に北本に移している。自分のために、墓地を市内に求めた人も多い。お互いに土地の人と慣れ、島の人といっても遠い感じで、両隣の人と親戚みたいになっている。地区の神社の氏子にもなり、氏子会にも加入している。班長などを勤め、神社関係の仕事をすると、自然にそういうことになるのだという。だが、近所によそから来た人があると、同じ境遇として親しみを感じ助け合うという。自治会の班には加入しているが、昔からのクミアイに加入している意識はない。信仰的な代参講には加入していないが、嫁の旅行会には加入している。婦人会は加入して、役員などもした。死人や急病人などの場合は、まず班長に話すという。
お産の時の腹帯受けや、子供の初宮参りは地区の氏神様に行った。息子の嫁は小笠原出身の人(戦時中一緒に引き上げてきた家)を貰ったという人もいる。小笠原ではしなかったが、乳がよく出るそうだということで、出産前には生きた鯉を届けてきた。浅間様の初山は、子どもの時はまだそれほど盛んではなかったので連れて行かなかったが、孫のときは子どもの神様ということで、連れていったという。
神棚には、地区の氏神様のお札をはじめ、各地の神社に御参りして受けてきたお札が飾ってある。ある家では、これらのお札のほかに神のお姿を描いた小さな掛軸を大事に祀っている。これは小笠原で家の神として神棚で祀っていたもので、本土への引き上げの時も大事に持ってきたものなので、現在でも家の守り神として拝んでいるのだという。また、小笠原では漁の神として水天宮様を祀っていたが、北本に来て関係がなくなったので祀るのをやめたという人もある。
ほとんどの行事は本土のやり方で行っているが、正月など一家で集まる機会には、小笠原のしきたりでやることもある。小笠原では正月には、マグロなどの魚を醬油と酢につけこんで作る独特の鮨がつきものだった。それで、北本に来てからも、子供たちが集まる正月には、小笠原ふうの鮨をこしらえる。また、小笠原では米も里芋も取れず、里芋は郷里の八丈島から送ってもらって、大事に使っていた。それで北本に来てからも土地を借りて里芋を作り、正月には里芋料理をした。小笠原には牛・豚はいなかったのであまり食べず、代わりに鶏をよく食べた。それで今でも、鶏肉を小さく切って入れた鶏飯や鶏肉のスキヤキをする。小笠原にはウドンがなくて御馳走だったので、鶏肉を入れてスキヤキふうにした。ゴボウと魚を入れた小笠原ふうの昆布巻きもこしらえる。鯨料理も作りたかったが、北本では鯨肉が手に入らなかったのでやめた。
正月にはそれぞれの家で、何がしかの小笠原ふうの料理を作っている家が多い。そして、これも本当は小笠原ではなくて八丈島や沖縄など、各家が小笠原転住前に居住していた土地のしきたりだと話す人が多い。小笠原、東京生活を経て、現在地の北本まで持ち伝えている家々の民俗もあるのである。
他には、墓石の台座に小笠原ふうの石を使ったとか、節分に一升桝に入れて神棚に上げた豆を紙包みにして供えておくと、雷が海に行くので小笠原では雷で死ぬ人はいなかった、それで今でも、紙包みにして一年間神棚の隅に供えておく、などの民俗も生きている。ただ、これらの民俗も、明治から大正生まれの人々の間に伝承されているもので、子供の代になると北本のやりかたに変わるだろうといっている。
よそから移住してきた新住民といっても、その世代や移住の年代によって、意識は大きく異なり民俗の保持の仕方は様々であろう。何代も北本市域に住んでいる人々によって伝承される民俗、新住民によって受け入れられ新たに再生産される民俗など、北本市の民俗もさらに多様化していくであろう。

図2 屋敷神

「埼玉県民俗地図」より作成

図3 六月一日の門火焚き

図4 七夕の民俗

図5 十五夜・十三夜の麦の年占

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