北本市史 民俗編 民俗編一覧

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第1章 生活の場と民俗概観

第2節 北本市の略沿革

北本市域には、古くは荒川よりの台地西部に高尾遺跡・宮岡遺跡などの縄文時代遺跡が分布している。縄文期から古墳期にかけては榎戸遺跡・東谷足遺跡・北袋遺跡などがある。古墳時代のものとしては、庚塚遺跡や八重塚古墳群などが浅されていることから、その歴史をたどることができる。台地東部にも縄文・古墳期の上手遺跡がある。

写真3  上手遺跡発掘のようす(古市場)

古代・中世を語る資料は乏しいが、鎌倉期には石戸宿の堀之内を根拠地にしたと伝える武士団があらわれ、空濠跡などに往時のようすがしのばれる。石戸宿の東光寺には、貞永二年(一二三三)を最古として鎌倉期の板碑多数が出土している。江戸期には、この地は天領、旗本領、寺社領からなり、正保年間(一七世紀中頃)には一四カ村、幕末には一五カ村に分かれていた。
今日の北本の原型となる街並みが形成されたのは、江戸時代の初期に本宿村が中山道の宿駅として整えられたのが始まりで、そのころ荒川に面した高尾・荒井・石戸宿には河岸場があった。その後明治維新をへて明治二十二年の町村制施行により、一四か村が合併して石戸村と中丸村とが成立した。さらに、昭和十八年に石戸・中丸の両村が合併し、新村名は新村の中央に所在する地名及び旧国鉄の駅名から、北本宿村と命名された。そのころまでは、台地の畑作卓越地域として、麦・陸稲・甘藷・繭の生産の盛んな純農村であった。旧石戸村のトマトは、全国に名を馳せていた。
その後、人口の増加と商工業の発展により昭和三十四年に町制を施行して北本町と改めた。さらに日本経済の高度成長にともない、住宅団地などの建設によって急激な人口増加をみ、昭和四十六年に埼玉県三三番目の市として北本市が誕生した。都市化とともに農地や平地林の宅地化も進んだが、一部には昔ながらの平地林も残り、また菊・洋ラン栽培などの都市型農業が進み、緑に囲まれた健康な文化都市を目指して発展を続けている。

写真4 町制施行祝賀会のようす(北本宿中学校校庭)

写真5 ハウスの菊栽培(下石戸上)

写真6 ブドウの収穫(北本宿)

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