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第11章 伝説・世間話・昔話・諺

第1節 伝説

1 蒲   桜
石戸宿東光寺
a 範頼公が、杖をさしたら根づいた、と子供のとき、こういうふうに聞きました。
また、下石戸下の諏訪文吉さんがいうには、範頼公は川越から川島の牛ヶ谷戸、山ヶ谷戸をへて、大塚の諏訪神社(現住、荒川の堤防際にある)から石戸宿の渡船場につき、この東光寺に来たのだ、といっていました。
  ▽高松木一郎さん(石戸宿、明治三十一年)
b この桜は北本市石戸宿の東光寺の境内にある。樹齢七〇〇年と推定される巨木である。四月の初め淡紅色単弁の花を開く。山梨の神代桜、岐阜の薄墨桜、福島の滝桜、静岡の下馬桜と共に大正十一年国指定となった日本五大桜樹の一つである。

写真1 蒲桜(天然記念物指定当時 石戸宿)

蒲桜は古くから知られ、滝沢馬琴の「玄同放言」にも東光寺蒲桜の題下にかなりくわしく紹介されている。その挿絵は馬琴の友人渡辺崋山が、わざわざ訪れて写生したもの。崋山はこの絵に注記して、「さる名木なれどもこれを知る者稀なるは花の為恨むべし」と記している。
・・・・・・・・・
この浦桜にまつわる伝説は次の通りである。
平治の乱後、身の危険を感じた源範頼は、杖をたよりに、遠江の蒲の地をたって草深い武蔵国(北本市石戸宿)に落ちのびていった。めざすは安達盛長の館である。この時に用いた杖が根づいて成長したのが、今日の蒲桜だという。
この伝えは古老のよく語るところで石戸宿の高松木一郎さんの話によると、諏訪文吉さん(下石戸下の人。今いれば百歳位)は、桜の花の咲くころになると、よく見に来て高松家を訪れて、そのように語ったということである。なお範頼は人に知られないように、川越から大塚(川島町)に出て、そこの諏訪神社を通って、石戸宿の渡舟場から東光寺に抜けたということである。これも諏訪さんの語ったところであるという。
  ▽韮塚一三郎著「蒲桜と忠度桜の話」。「埼玉グラフ」一九七九年四月号所収
c 昔、荒川が交通の役目をはたしていた。落ちうど(源範頼)が石戸宿に上がって、休んでそこに杖を立てた。そしたら、そこから芽が出て、桜の木に育ったのだという。
  ▽話者・・・・・・・野口照子さん(北本宿明治四十五年生)「郷土のむかしむかし」(一九七六年、市立北小六年一組編)所収
d 蒲桜は、杖が根づいたんだって間いています。
  ▽話者・・・・・・・伊藤明(大正十三年生)・いそさん(下石戸下大正八年生)
e 石戸の蒲桜について、ここらでは「範頼がついてきた杖が根づいた」と、言っています。
範頼のお手植え、家来が範頼の墓標として植えたとか、兜を掛けたとか言うのは、聞いていません。
石戸と範頼とは何か関係があるんですか。石戸には(範頼の墓と言われる)五輪塔があるんですか。伊豆に大きなの(範頼の墓)がありますよね。
亀御前の話は聞きますがね。比企禅尼に養われてここにいたということです。範頼の子孫は七代続き、その後吉見氏を名乗ったんです。子孫というのがあっちこっちに居て訪ねてきます。東北にも桑名にも、鴻巣にも吉見氏を名乗っている子孫がいますよ。
  ▽話者・・・・・・・岩殿山安楽寺住職、島本虔栄さん(吉見町)
f 範頼は、蒲の冠者と名乗っていました。北本市の「蒲桜」は一時、日本一と言われた桜の名木ですが、これがなんと蒲の冠者源範頼の持っていた杖が根づいたものだといわれてきました。
一本の木から五種もの花が咲くのです。
  ▽五味兎史郎(周太郎)「鴻巣宿場かるた」鴻文堂昭和五十二年
g 範頼が杖をついた其の杖が桜になった。
  ▽綱島憲次「研究物綴・・・・・・・・・読方、綴方」謄写刷昭和十年ころ
h 範頼が蒲の地より石戸に来た時杖にしてた木が根づいた。
  ▽新井恒治(高尾大正十五年生)「ニュース北本」所収「北本の郷土史抄の二八」
i 一説には、範頼が関東へ来て、この付近を通り、馬をつないでサクラの木にカブトをかけたとも古老は伝えている。
  ▽石戸の蒲桜保存会(堀内青年クラブ)作成絵はがき「石戸の蒲桜」昭和六十年四月
j また、古老の話では東国に(範頼が)下る道すがら駒を止め兜をこのサクラにかけて、根方に腰かけ休憩したともいわれる。
  ▽埼玉新聞社「埼玉郷土辞典自然編」昭和四十四年

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