北本市史 民俗編 民俗編一覧

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第2章 社会生活と親族

第2節 村の中の区分とつきあい

1 村の中の区分

荒井
荒久保・風原・馬場(番場)・東原・南・荒上手(あらうわで)・北袋に別れる。北袋は飛地で「風土記稿」には、「北袋村、荒井村技郷、民戸三〇、鎮守神明宮」とあり江戸時代から別村のような扱いであった。これらの区分けを部落とか、組とかと呼ぶ。
荒久保は一六、七軒ある。風原は約四〇軒ほど。荒久保、風原を戦後「西一三地区」と呼び、区長がまとめている。農協関係は部落で行い、市役所関係は地区で行う。昔からの行事は風原と荒久保と別々に行い、一緒にする事はない。ここで諏訪神社の役員を一名出している。また、風原の家々の女性が行う行事に観音講がある。春と秋の年に二回行う。終戦後はこれを女講と呼ぶようになった。
一〇年ほど前から風原の希望者のみで一晩泊りの旅行をしている。またこれとは別に最近、日帰りで家族旅行もしている。風原のほとんどの家が参加する。
馬場は農協の北側で西一二区という。
東原(西一一地区)、南(西一〇地区)、荒上手(西一四地区)は新住宅が増えているところである。東原には浅間神社がある。
南地区は現在、下石戸上の一部である南と荒井の南とで西一〇地区をなしている。「両南」という言い方もある。両南のほとんどは黒稲荷神社の氏子である。この稲荷社は元は個人の所有だった。明治三十七年ころ南の近くで火事が多発し、黒稲荷が火伏の神様として崇められ信者が増えた。また、昔は下石戸上の南だけで祭るものだった八幡社を両南の合同後は一緒に管理している。西一〇区の九つある班から一人ずつ当番がでる。荒井の村鎮守の須賀神社の氏子総代が九人の当番の上に立ち指示する。祭礼は四月と九月の十五日。昭和三十年ころまで両方の南で一つの大山講を組んでいた。
上手は、元は三〇軒ほどの集落だった。現在は八〇軒ほどある。上手組といういいかたもある。
それぞれの部落ごとの行事としてショウジン(精進)とよぶ集まりがあった。日取りは二月と七月の二十四日。荒久保のみが冬は正月二十四日だったという。回り番の宿に戸主が集まり、飲み食いをして過す。信仰的な行事ではなく、親睦を主とするものだった。後には主婦も参加するようになり、宿も集会所などに変り、また消滅したところもある。部落ごとの結束が確認される機会であった。
各地区で夏、大山灯籠を立てる。北袋を除く六地区から一人ずつ鎮守の須賀神社の世話人を出している。

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