北本市史 民俗編 民俗編一覧

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第2章 社会生活と親族

第2節 村の中の区分とつきあい

1 村の中の区分

東間
旧来の家は中山道沿いにある。村はそこから東の方へ広がっていてほとんど畑だった。家が増え始めたのは昭和三十年ころからである農家の跡取りたちが勤めに出るようになって、耕作地は減っていった。
東間は上組・中組・下組・新田(東間新田)に別れている。家数は昭和初期に六八戸あったという。東間新田は本村から離れていて昔は一二部落といい一五戸、本村の方は下組を一三部落(現在の一~四丁目)、中組・上組を一四部落(五~八丁目)といい、上・中・下が五三戸あった。今は全部で二〇〇〇戸ほどにもなっている。下組に大きな百姓が多かったという。一ニ~一四部落を一ニ~一四区ともいい、戦争中に編成されたという。
それぞれの部落は戦後まで部落会を作っており、部落会長が代表していた。その後部落会長は臨時書記となって、またそれでは名前が良くないということから、区長となり、現在の自治会=区に連続している。
東間の上組と中組は葬式の時協力があった。例えば上で葬式の時は、中は出棺の時に送りに出て、その逆がまた行われた。
石尊講は上組と中組とが一緒に、下組は別に行った。東間新田ではこれをお精進といった。榛名の代参講は、新田を除く三部落が一緒に行っていた。
このように東間では全体で浅間神社を祭り、四つの部落がそれぞれ民俗慣行の基盤であった。

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