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第2章 社会生活と親族

第2節 村の中の区分とつきあい

1 村の中の区分

宮内
戦前は六〇戸ほどだったという。それが昭和三十六年ころには七〇〇戸になっていた。
宮内の中には昔から、上クルワ・ジンガクルワ・原・新田と四つのまとまりがあった。上とジンガを「上」といい、原と新田を「下」といっていた。昔は一名の部落長が宮内を代表しており、上から長を立てれば、副は下から出すという具合だったという。
ジンガと上とは別々に稲荷講を組織している。上では女達の行事になっていて、初午に集まる。ジンガでは男たちがあつまる。また、上・ジンガの元からの農家は石尊講を組織している。昔は一八歳で大山に登った。榛名講・御岳講も一緒にやった。
上・ジンガの人たちのお墓が纏まっている観音堂に興教大師のお姿が祭ってある。それを三月の十五日と四月の二十五日に、お厨子に入れて、上・ジンガの範囲にある家を隣から隣へと一軒ずつ回す。その時村のお婆さんや子どもがその後からぞろぞろと付いて歩く。各家では正月に作ったあられを煎り、また大豆を煎って交ぜ合わせ、大師様に供え、付いて来た人達に一つかみずつ配る。村を一巡すると最後は弥陀堂に戻る。そこで、子ども達にはお菓子を配って、解散する。この行事は、その後、バイパス(国道一七号)ができてからは、三月十日になった。

写真5 豆イリ真言

原と新田とを下と呼ぶ。住居表示される前は農家が三一軒あったという。ここを範囲として行われる伝統的行事も上の埸合に対応している。豆煎り真言は、三月十日と四月十日に阿弥陀堂で行われる。ソラマメを煮たり、正月に作ったアラレを煎ったりして供える。子どもたちがお堂に集まるとそれらの供え物を少しずつ配った。下では御本尊を回わす事はなかった。
念仏舗は原と新田に分かれる。石尊講、榛名講は下全体で構成した。
昭和十八年に宮内を上、下に分け、それぞれを一〇部落、一一部落というようになったという。その時からそれぞれに代表者を立てるようになった。昭和十八年は石戸村と中丸村とが合併して北本宿村となった年である。その後、一一部落内の家数が増えて、一二部落、さらに一九部落ができた。

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