北本市史 民俗編 民俗編一覧

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第2章 社会生活と親族

第4節 村の中の諸集団

3 青年団(会)

かっての村には青年団、あるいは青年会と呼ばれる組織があった。前記の若い衆の組と名前や構成員が似ているので、同じものと理解される事もあるが、両者の成り立ちは別である。
若い衆は、少なくとも江戸時代までは遡る伝統的な民俗であり、青年団・青年会は明治国家が教育政策の一つとして指導育成したものである。
埼玉県では、明治三十九年に各町、村あてに次のような通達を出し「青年団体」の組織化を指導した事が分っている。
曩ニ御通牒ニ及ビ置候客年十一月開会ノ学事会ニ於ケル指示事項中実業補習学校及青年教育機関設置ノ件ニ付キテハ既ニ夫々御奨励ノコトト存候へトモ尚其筋ヨリ通牒ノ次第モ有之風儀ノ矯正、智徳ノ啓発、体格ノ改良其他各種公益事業ノ幇助等ヲ目的トスル各種青年団体ノ設置ハ通俗教育上ニ於テモ其効果尠カラサルコトト存候ニ付是等団体ヲシテ其発達ヲ遂ケシムルト同時ニ旧来ノ若連中等ノ青年団体ニ於テモ其ノ弊習ヲ排除シテ有益ナル活動ヲナサシムル様適宜誘掖指導相成候様致度依命此段及通牒候也
明治三十九年一月一日
第二部長
各部長宛
追テ右青年団体ノ奨励ニ関シ従来施設セラレ其効果等著シキモノ有之候ハハ此際御報告相成度又将来施設相成候上ハ其の効果等
ニ付キ時々御報告相成度此旨申添候也
(県行政文書 明三三二九号)
(昭和四十六年三月発行『埼玉県教育史』第四巻 埼玉県教育委員会)
この通達の中では「風儀ノ矯正、智徳ノ啓発、体格ノ改良其他各種公益事業ノ幇助等ヲ目的トスル」とその目的を述べ、さらに「旧来ノ若連中等ノ吉年団体ニ於テモ其ノ弊習ヲ排除シテ冇益ナル活動をナサシムル様」と、伝統的な若い衆の組織を「若連中」と呼んでそれを「弊習」と極め付けている。
市内には、昭和十八年の石戸村、中丸村合併以前は両村に青年団(会)があって、各部落にはその支部があった様である。たとえば、石戸村には「石戸青年会」があった。石戸尋常高等小学校編集(明治四十五年一月)による「石戸村郷土誌」(未刊)によれば、その設立は、
先キニ本村ハ青年教育ノ必要ヲ認メ 去ル明治三十九年二月ヲ以テ 有年夜学会ナルモノヲ組織シ 以テ之ガ教育ヲ施セリ、其第一回ノ夜学会終局ヲ告ゲ終了証書授与ノ際 本村ノ美果ヲ修メ 益々向上発展セシメンニハ須ク其中堅タル青年一致協力ニ俟タサルへカラス 而シテ之カ意志ヲ疎通シ 融和ヲ計り 共同ヲ以テ事ニ当ルニハ青年会ナルモノヲ組織シ 各其意志ヲ交換スルニ若クハナシト懇々青年会設立ノ必要ヲ説キ 青年会ヲ組織スヘク勧メシ所 一人ノ異議ナク満場一致ヲ以テ 茲ニ青年会ハ組織セラレタリ 之レ明治三十九年二月十五日トス
とある。つまり、明治三十九年に「青年夜学会」を設けた。その年度の分を終了するに当って、受講者の「益々向上発展」のために組織したという事が分る。
「青年夜学会」の内容については、同誌には次のようにある。
青年夜学会ノ規程及ヒ状況
夜学会規程(三十九年二月設立)
第一条 石戸村教育会則第六条第一項ニヨリ夜間ヲ利用シ軽便ナル方法ヲ以テ農村青年ノ智徳ヲ啓発シ兼テ風紀ノ矯正ヲナスヲ以テ目的トナス
第二条 本会ノ修業機関ハ五週間トシ 毎年一月ニ始リ二月ニ終ル 其教授時間ハ三時間トシ 午後七時始業 午后十時終業トス 日曜祭日ハ休業トス 但シ時宜ニヨリ変更スルコトアルヘシ
第三条 本会ハ本村在住青年ニシテ現ニ小学校ニ在学シ居ル者ハ除キ他ハ何人モ入会ヲ許可ス
第四条 教科目ハ修身、国語、算術トス
但シ臨時加除スルコトアルヘシ
第五、六条(省略—筆者)
第七条 本ハ八授業料ヲ7徴収セズ
第八条 本会ノ経費ハ村教育会ヨリ支出ス
第九条 本会ニ随時ニ入退ヲ許可ス
第十条 平素勤勉ニシテ学業操行共ニ優良ナリト認ムルモノニハ之ヲ表影ス
第十一条 本会ヲ終了セシモノニハ修業証書ヲ授与ス
そして青年会の内容はその会則によって知る事ができる(同誌)。
石戸青年会々則
第一条 名称、石戸青年会
第二条 目的
一 和親協同ヲ謀ルコト
二 風俗矯正ヲ謀ルコト
三 智識ノ研磨ヲ謀ルコト
四 本村将来ノ発展ヲ謀ルコト
第三条 会員
一 本村在住者ニシテ年齢十五歳以上ノ有志ヲ以テ正会員トス
二 名望アルモノニシテ本会趣旨ヲ賛成スルモノハ役員会ニ於テ賛助員ニ推薦シ賛助ヲ乞フモノトス
三 本会ノタメ特ニ賛助セラレタルモノハ役員会ニ於テ特別賛助員ニ推薦シ本会ノ事業並ニ経営ニツキ意見ヲ聞キ賛助ヲ乞フモノトス
第四条 役員
左ノ役員ヲ置キ任期三ヶ年トシ再選スルコトヲ得且ツ兼任スルモ妨ケナシ
一 総裁一名、会長一名、副会長一名
会務一切ヲ総理シ理事之ヲ互選ス
二 理事七名
役員会議ノ任ニ当リ且ツ会務ヲ分掌スルモノトシ総会ニ於テ選任ス
三 幹事若干名
幹事ハ会長之ヲ指名嘱託庶務ヲ取扱フモノトス
第五条 事業
毎年一回(二月中)ノ総会卜時々通常会ラ開ク
事業ハ左ノ八部ニ分チ各々之ヲ励行スルモ十三区域ニ分チ各々支会ヲ組織シ自治的ニ其事業ヲ行フ 支会ノ会則ハ別ニ之ヲ定ム、
一、夜学部 二、談話部 三、会報部 四、図書部 五、囲碁部 六、撃剣部 七、華道部 八、試作部
第六条 経費
一 会費 マイ年二月中之ヲ徴収ス
1 正会員ハ一ヶ年金拾銭トス
2 賛助員ハ一ヶ年金五拾銭ノ醵出ヲ乞フモノトス
3 特別賛助員ハ一ヶ年金壱円ノ醵出ヲ乞フモノトス
二 有志ノ寄付
三 村税ノ補助
四 臨時費ハ必要ノ際総会ノ決議ニヨリ徴収ス
第七条 入退会
入退セントスルモノハ会長ニ届出其許可ヲ受クルモノトス
第八条 会則ノ改廃
本会則ヲ修正スル場台ハ総会ニ於テナスモノトス
第九条 附則
本会ニ必要ナル規程ハ役員会ニ於テ定ムルコトヲ得
「石戸青年会」設立の直接の契機が「青年夜学会」にあったとしても、背景には前記の埼玉県の通達が大きく囲係している事が分る。
このような青年団(会)は、人々の記憶の中には次のように残っている。
宮内では、この土地に残って戸主となる人は全員青年団に加入した。宮内が一組織だった。青年団で桑畑をかりて耕作し、とれたものを売って資金にした。戦争(太平洋戦争)が始まるころまで活動した。戦争になって、家々で人手が無くなると、安い賃金でそのような家の仕事を引き受けたりした。その他、学校を借りて屋外の映画会、村毎の運動会などを行った。そのころ映画は鴻巣まで行かないと見られなかったという。
荒井では、小学校を卒業して加入し、二十二、三歳まで入っていた。よその村の青年団と対抗の陸上競技などやつた。また資金調達のために新間配達などして、その金で自転車旅行などもした。泊まり掛けで、青梅の御嶽神社や榛名・筑波神社に行った。そのころ自転車は一家に一台はあったそうだ。大正の終わりころの話である。
山中では、昭和元年ころ青年団を作った。尋常小学校高等科二年を卒業すると村の男は大体加入し、徴兵検査を過ぎると抜けて行く。旧中丸村には二組の青年団があって、第二支部は、山中・北中丸だった。内部の組織には事業部長などがあった。新聞配達や、置き薬の販売などしてお金を集めた。薬は富山の薬売りと同じで、家々に予め配って置き、三か月毎に薬の入れ替えと集金をした。戦後は青年団の活動が弱くなったという。

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