北本市史 民俗編 民俗編一覧

全般 >> 北本市史 >> 民俗編 >> 民俗編一覧

第3章 農業と川漁

第1節 畑と畑作物

3 畑作の過程

(一)麦
畑うない
麦蒔きをするのは十月下旬から十一月上旬で、夏作を収穫するとこれまでに畑の地ごしらえを行う。地ごしらえの方法は、夏作の作物によって異なり、オカボ(陸稲)を作った畑は、一度うない返しをしてから整地という手順になり、サツマイモを作った畑は、芋を掘り上げた畝を作りなおしてから整地をした。
オカボ跡の畑うないは、大正時代・昭和初期まではエンガ(エングワ)と呼ぶ踏鋤(ふみすき)(図1参照)を使っていた。畑の耕起用具はエンガからマンノウになり、さらに牛による犁(すき)耕、動力耕耘機へと移り変わっているが、エンガからマンノウへの変化は地区によって年代が違っているようである。たとえば石戸宿の清水茂さん(明治四十四年生)は、自分もエンガを使ったことがあるというのに対し、下石戸下の柳瀬建治さん(明治四十四年生)は明治二十三年生まれの父の代まではエンガを使ったが、自分の代になってからはマンノウだった。また、深井の清水吟一郎さん(明治四十三年生)は、畑をうなうのはもっぱら四本マンノウか三本マンノウで、エンガは使ったことがないという。高尾では戦後までエンガを使ったことがあるという人もあり、総じて市の西部の荒川沿いの地域では、比較的遅くまでエンガが使われ、東部地域では早い時期にマンノウになったようである。

図1 踏鋤と万能

エンガは柄を手で持ち、足で鋤の後ろを踏んで一サクずつ土を起こすものである。後退しながら使い、一日に三畝から五畝の畑を返すことができた。一日に五畝を返すのは達者な人で、三畝程度が普通だったようである。石戸宿では「三人一反」といい、三人で一日に一反を返したという。エンガは鍬に比べると大きくて重く、しかも素足で踏んだので、この作業は大変なように思われるが、実際に使ったことのある人は、立ったままで仕事ができ、意外に楽だつたという人もある。
現在の古老は、大半がマンノウの世代となっている。エンガによる畑うないは土を深く起こせるという利点があったが、扱いはマンノウの方が楽であり、手軽でもあった。一日に耕せる面積は場所によっても違うが、東間では一日に一人で五畝、達者な人で七畝できたとのことで、エンガよりも効率は良かったようである。
マンノウでの畑うないは横うないといい、サクに対して体を少し横にして前進しながら耕す方法である。オカボを作った畑では、ただサクなりにうない起こすのではなく、ホリコミということもした。これはオカボのサクの間を耕し、さらにオカボの刈り株の根本を刃の長い三本刃のマンノウで切り起こし、土の中にうない込む方法である。少々手間がかかるが、ホリコミを行うと後の作が良かったといわれている。
サツマイモを作った畑は、芋掘りで土を起こすのでそのまま整地して麦の畝を切ることもあった。しかし、この方法だと雑草が多く出てしまうので、仕事の余裕があるとアゲウネをした。アゲウネというのは、掘った跡をマンノウで畝状に耕しなおすことである。
エンガにしてもマンノウにしても、人力で耕す方法で、一日に一反は出来なかった。北本ではどこの農家も畑作が中心で、畑うないには大変な労力と時間がかかったのである。畑うないは十月末には始めなければ麦蒔(ま)きに間に合わず、雨が降っても蓑を着て畑を耕すことも多々あった。
こうした仕事がいくらかでも楽になったのは、昭和初期に牛を飼い始め、犁を使うようになってからである。一頭の牛は人の数倍の仕事をするからで、大きな農家では昭和五年ころに朝鮮牛を使い出した。広く使われるようになったのは昭和十年代以降で、三重県の高北犁(たかきたすき)を牛に曳かせて耕した。この当時は阿蘇牛を使う家もあったというが、畑の牛耕は昭和三十年代に動力耕耘機が導入されるまで続いた。
耕した後の畑の整地は、コスリマンガで行った。これは一尺程度の棒に樫(かし)の木で作った短い歯を十本ほど付け、T字型に柄をすげたものである。柄は山桜の木や竹を使い、六~七尺くらいの長さにした。エンガやマンノウで畝状になった土を、まず鍬で崩し、その後にコスリマンガで平らに均すのである。コスリマンガはコスリマンノウとか、ツブテッコワシともいう。なお、牛を飼うようになってからは、田の代搔きに使う馬鍬(まぐわ)に似たものを牛に曳かせて整地するようにもなった。


<< 前のページに戻る