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第3章 農業と川漁

第1節 畑と畑作物

3 畑作の過程

(一)麦
脱穀・調製
春蚕が行われる五月から麦の片付けが終る七月中・下旬までは一年でもっとも忙しい時期だった。春蚕の掃き立てに始まり、麦刈り、蚕の上蔟(じょうぞく)、繭搔き、田の仕事、麦の脱穀、ボウウチ(麦ぶち)、選別、俵詰めなどが続く。麦の脱穀・調製は、各地区に目安になる祭りなどがあって、これに間に合うように仕事が進められた。しかし実際には往々にして遅れてしまったという。
たとえば東間では七月一日の浅間様の祭りまでに大麦の脱穀と小麦の脱穀・選別などを終え、七月十五日の天王様の祭りころまでに大麦のボウウチが終るように進めたという。また、下石戸下では七月十四・十五・十六日の祇園(ぎおん)までには麦の片付けが終るようにしたといわれている。
大麦と小麦では、脱穀は小麦を先にした。土用までに扱(こ)かないと小麦から蛾(が)が出て来るのでというし、北本では七月一日には新小麦で饅頭(まんじゅう)を作るのを習わしとしたところが多いからである。脱穀の方法も大麦と小麦では異なり、大麦はコキと呼ぶ千歯(せんば)で穂を扱き、小麦は麦打ち台で叩いた。
コキは大正時代にガーコンと呼ぶ足踏み脱穀機が普及するまで使われた。麦を扱くコキはかっては竹の歯で、人差指程の太さの竹を三〇本くらい並べたものだったという。鉄の歯のコキは明治末ころから使われ始めたという人もある。また、コキには麦用と米用があり、麦のコキは米のに比べて歯の間隔が粗く、間に一銭銅貨が入った。米のコキは五厘硬貨が入る間隔だったという。

写真8 竹のコキ

写真9 鉄のコキ


図4  千歯の各部位寸法

写真10 足踏み脱穀機


表5 千歯墨書・刻印・焼印一覧(北本市敎育委員会所蔵)
 歯数墨書刻印焼印
121明治三十八年
谷□正作
岡部土□
正釼焼入
229無類極上二十九加羅鋼請
明治参拾九年之新撰
代金壱円七拾五銭所有者宮倉□太郎
明治三十九年
伯州□□
本場
伯州出店
佐々木製
321一 無類極上□加羅鋼誠
 二個口
大字高尾堀口佐兵衛様 元此□御千□
明治三十九年
正谷□作
□□□一九本立
421 三丁口大字高尾堀口佐兵衛様
⊏   ⊐上方台用 元廿九□
明治三十九年
正谷中作
525明治⊏⊐年
大日本□願出五
正釼請合□□
正谷中作




623 ⊏⊐下石戸伊藤彦太郎様⊏⊐
代金壱円四拾銭下石戸伊藤彦太郎様
大正七年
   年
   上
⊏ ⊐作
729 無類極上二十九加羅鋼請平⊏ ⊐ム
大正十年
⊏ ⊐作
本場
伯州出店
佐々木製
829 無類極上二十九加羅鋼請大正⊏ ⊐年本場
伯州出店
佐々木製
925 無類極上二十□加羅鋼誠⊏ ⊐作
中⊏ ⊐
昭和九年
1023 無類極上廿五加羅鋼誠昭和十二年
篠津八二作
1123 無類極上二三加羅鋼誠
陸稲 中丸村北本宿岡野松之助
改良陸稲扱
⊏ ⊐具
1225 無類極上廿五加羅鋼請
伊藤□助
⊏  ⊐
⊏  ⊐
⊏ ⊐作
13v23 無類極上廿三加羅鋼請⊏ ⊐年
表6 千歯各部位の寸法(千歯番号は墨書・刻印・焼印一覧に同じ)単位:cm
 歯数歯止
128.927.11.322.529.559.67.84.921
231.528.80.720.625.660.97.64.829
329.428.01.321.728.959.37.74.821
428.227.11.221.528.559.88.24.721
534.533.51.122.629.658.38.14.725
630.128.61.121.328.860.58.05.023
731.327.20.721.529.160.07.94.929
832.029.60.920.727.158.37.64.929
932.329.91.021.528.760.37.54.725
1034.630.31.123.331.159.18.25.223
1133.329.60.722.029.360.87.74.723
1234.631.11.122.329.359.58.35.625
1331.227.81.221.327.860.57.75.323
コキは家に二、三台程度あり、脱穀は庭に莚(むしろ)を敷いてコキを並べ、麦をひと握りずつ持って穂を掛けて引き落とした。家族みんなで扱いたが、多く作る家では人を雇った。一日にできる量は、二人で扱いて五畝分くらいだったので、十日も十五日もかかっていたのである。
大麦はコキで扱いてからボウウチをする。麦粒に付いている芒(のぎ)を落としたり、穂首から切れ落ちたのを粒にする作業である。ノゲオシ、ムギブチ、ムギコナシともいわれ、扱いた麦を庭に広げて一日ほど干してから行った。莚(むしろ)などは敷かず、土の上に直に広げる。こうすると乾きが早いのと、麦には芒があって莚(むしろ)を敷くと織り目に引っかかるからだという。

図6 明治中期の水田(黒塗部が水田)

七月中旬の日中の仕事で、一人だと一日に一石程度しかできないので、近所の家などとイイ仕事で行うことがしばしばあった。各自クルリ棒を持ち寄り、広げた麦を中にして向き合って並び、調子を合わせるために麦ぶち唄を歌いながら打った。同じ調子で打たないと危険だし長続きしないからである。唄は調子さえ合わせられれば何でもよいという人もあるが、市内には麦ぶち唄が各地に伝えられている(「麦ぶち唄」については第十章参照)。

写真11 麦ぶちの石のローラー(下石戸下)

ボウウチに使うクルリ棒は、木の棒の先端部に横に軸を差込み、柄を取り付けたものである。柄を持って上下に動かし、軸を中心に棒を同転させて麦を打つ。慣れないと棒がうまく回らないが、これは軸だけ買い求め、あとは自分に合うように長さや重さを調節して作った。回転の中心となる軸はアタマと呼ばれ、樫(かし)の木製で棒屋(鍬やマンノウの柄などを作る職人)に作ってもらったり、鍛冶屋に注文したという。麦を打つ棒のアタリ棒は、なめっこく(軟らかく粘りがある)割れにくいエゴの木が良いといわれている。柄は竹製である。クルリ棒は麦のボウウチだけでなく、アワやキビ、オカボの脱穀、大豆の豆落しなどにも使い、農家の必需品だった。
ムギブチはどこの家でもクルリ棒で行っていたが、他家と協同しなければできなかったり、能率もよくないので、後には牛馬に石のローラーを曳かせるようになった。ローラーは長さ三尺、直径一尺五寸ほどの御影石製のもので、表面には螺旋状に溝が刻まれている。中心に鉄の軸が付けられ、ここを牛馬に曳かせて回転させて使うが ローラーは左右端の太さが変えてあり、曳くと円を描くように回るように工夫されている。
ローラーでのムギブチは、牛馬のハナドリが一人付いて引いて歩き、麦は土の上に広げた。このムギブチだと初めのうちは麦に泥が混じることがあったが、一度曳くと土が堅くなって混じることはなくなったという。
クルリ棒で打つにしても、石のローラーを曳くにしても土の上に直接麦を広げるわけで、これを行う庭は普段から大事にしていた。たとえば雨が降った時には、ムギブチをする場所に縄を張り巡らして人が入らないようにした。昔は雨降りには下駄を履いたので、これで歩くと土が掘れてしまうからである。冬場霜の降りる時期には、日中は霜が溶けてぬかるんで傷むので、庭には三月ころまで藁を敷いたりもした。
ムギブチは、庭の狭い家では木の臼に麦を入れて杵で搗いた。これでも一日に一石くらいはできたという。

写真12 籾ブルイ

ムギブチは日が昇りそろそろ暑くなる一〇時ころからは始まり、三時ころには終えた。その後、打った麦を寄せてフルイ(籾篩)にかけ、さらに唐箕にかけて選別する。麦とゴミをより分ける作業で、唐箕では一番アオリ、二番アオリ、三番アオリと三回あおり、俵に詰めた。ムギブチから俵詰めまでの仕事は、その日のうちに行うのが原則だったので、夜の一ニ時頃までかかることがあった。次の日天気が良ければ、また別の麦のムギブチ、選別、俵詰めを行うのである。
小麦の脱穀は前述のように麦打ち台に穂を叩きつけた。これは長さ二間、幅二尺ほどの梯子状の木枠の中に割竹を縦に簀子(すのこ)のように並べたものである。サナとも呼び、脱穀のことをサナオトシともいうが、小麦は大麦に比べて脱粒性が高く、これで十分に脱穀できたのである。家によっては麦打ち台がないこともあり、この場合は臼を二つ置いてその間に梯子を渡し、これに孟宗竹の割竹を縛り付けて使った。麦打ち台も足踏み脱穀機や動力脱穀機の出現で次第に使われなくなったが、なかには昭和十二、三年ころまで使った家もある。
小麦は刈り取ると束ねてすぐに家に運んできたので、まず脱穀の前に小束に束ねなおして干した。束の根元の方を二手に分けてX形にし、穂を上にして庭に並べて二、三時間おいてから脱穀をしたのである。麦打ち台の片面には、麦が飛び散るのを防ぐために莚を当てがい、手で握れる分だけを持って打ちつける。脱穀した小麦は、寄せ集めてフルイにかけて実とゴミを分け、さらに唐箕(とうみ)にかけて選別する。そして、実は莚の上に広げて干し、再び唐箕にかけてから俵に詰めた。
麦の一俵は、大麦は四斗七~八升入りで重さが一五貫三〇〇匁、小麦は四斗入りで一七貫二~三〇〇匁だった。ただし、大麦は五斗俵とか古くは六斗俵もあったという。

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